2015年9月29日火曜日

弁護士らしい話し(其の9)


 昨今、複数の書籍を同時併行的に読むことが多くなっています。

 未だ未だ知りたい事柄、読み解きたい話しが多いものの、どこまでの持ち時間が有るものか・・・ということかも知れません。

 

 安保法制の問題が姦しい此の頃ですが、人は、幾つかの物の見方、価値観が有るというときに、ともかく先ず選び取ったものに、とかく最後の最期まで固執するもののようであります。

 

 読んでいる本のうち二冊の中に、大倉喜八郎(注1)という人物が登場します。

 2015年2月講談社発行の瀬川拓郎著「アイヌ学入門」にては、北海道旭川の師団用地に隣接する先住民アイヌの給与地を明治24(1891)年ころに騙し取った悪徳商人として(同書283頁)。

 

 また、2015年3月祥伝社発行の中野 明著「幻の五大美術館と明治の実業家たち」の中では、大正7(1918)年に美術コレクションを一般に公開する美術館「大倉集古館」を作った文化の貢献者として(同書10頁)。

 

 一方で、刑事裁判、刑事弁護における弁護人の活動について、論理ではなく、事実で以て、真摯に検察官と対峙しなければ、その責めは果たされないとの新聞の最近の報道記事を読み、何を今更・・・と思いつつも、人を評価するときに、事実を如何に精確に把握することが大切か、レッテルを貼って判断停止に陥っているのではないか・・・と自らを顧みてもおります。

 

 秋の連休中に、北関東へ又々出向きました。

 益子を訪れ、濱田庄司(注2)旧居の建物を移した先の「益子陶芸美術館」に入りました。

 

 前回春に、「濱田庄司記念益子参考館」を訪ねたところ、ビデオ映像や、南西諸島の骨蔵器が屋外に無雑作に放置(?)されているのを見て、好感が持てなかったのですが、改めて故人の事績と冷静に向き合うことが肝要と心を新たにしました。

 

 もっとも、以前から、河井寛次郎(注3)を第一と考えていることからの、眇であったのかも知れませんが。



(注1) 実業家。越後新発田生れ。幕末維新期、武器商として成功。大倉組を起して輸出入業・土木鉱山業を創め、大倉財閥の基礎を確立。また、大倉商業学校(現、東京経済大学)を創立。(18371928
(注2) 陶芸家・民芸運動家。名は象二。神奈川県生れ。栃木県益子で制作、民芸品としての益子焼に高い芸術性を与えた。文化勲章。(18941978
(注3) 陶芸家。島根県生れ。民芸運動に参加。辰砂など釉の技法に優れ、陶板・陶彫など独創的造形を試みる。(18901966
 
  以上、何れも「広辞苑」の記述に拠る。

2015年9月14日月曜日

弁護士らしい話し(其の8)


 入浴、排泄、食事という3ツのキーワードから何が頭に浮かびますか?

 入浴、食事と来れば、温泉旅行か・・・というのが世間一般のイメージであった筈です。

 が、今日、これに排泄が加わると、これは高齢者のケアの問題です。

 

 老人福祉法という昭和38(1963)年成立の法律があります。今日まで何度も改正されて来ています。

 その第2条は、「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする」と規定しています。

 が、世上姦しいのは、高齢者破産、悲惨な老後です。

 他方で、高齢者が若者の仕事を奪っているのではないか、高齢者は若者に場を譲るべきではないのか、という声もよく聞かれます。

 

 老人福祉法に対して、「青年」福祉法はないのか?

 社会福祉法(昭和26年法第45号)は社会福祉事業、地域福祉事業を謳っており、生活保護法、児童福祉法、老人福祉法、障害者支援法等に基づく事業を規律しています。

 結局のところ、児童福祉法はともかく、「青年」福祉法は無く、従来からの我が国の文化、人々の行動様式の中で、ある意味では、より厳しく、余裕の無い環境下で揉みくちゃにされ、ある意味使い捨てにされているのが今どきの若者ではないのか・・・と同情的に眺め始めています。

 

 老人の繰り言めいていますが、ネット情報、ネット環境の整備は、本当によりよい生活を齎したのでしょうか。

 圧倒的な量の、要らざる情報を撒き散らし、自身の幸せ度を引き下げただけではないのでしょうか。

 Amish アーミッシュのような生き方に学ぶべきではないでしょうか。

2015年9月1日火曜日

弁護士らしい話し(其の7)

 有斐閣という法律関係書籍の老舗の出版社があります。

 法律家なれば、必ず御世話になっているところです。

 同社の六法全書を開いていて、初めて気が付いたことがあります。迂闊に過ぎ、自ら呆れているところですが、各編の冒頭に箴言が掲げられているのです。

  憲法編には、「アメリカ独立宣言」「われわれは、次の真理を自明なものと考える。すなわち、すべての人間は、平等に造られている。・・・」
 
 地方自治法編では、「シャウプ勧告」から「地方自治のためにそれぞれの事務は、適当な最低段階の行政機関に与えられるであろう・・・」

 財政・租税法編には、福沢諭吉の「凡そ世の中に割合よき商売ありと雖も、運上を払うて政府の保護を買うほど安きものはなかるべし。・・・」

 警察・防衛法編には、モンテスキューの「経験がつねに教えるところによれば、権力をもつ者はそれを濫用しがちで、限界にぶつかるまでやる。まことに、徳性そのものすら限界を必要とする」

 刑法編では、「天落つるとも、正義は行わるべし」

 民法編では、「社会あるところ法あり」

 商法編では、「最悪の民法典は、疑いもなく、どこの国民にも無差別に適用される民法典であり、最悪の海法典は、一国だけの特別な利益と習俗の特殊的影響にのみ基づいて作られる海法典である」

 民事訴訟法編では、「他方の側もまた聴かれるべきである」

 国際私法編では、「法の条理は法の精神」

 社会保障・厚生法編では、大内兵衛が会長を務めた昭和25年の社会保障制度に関する勧告「序説」

 経済法編では、ユスティニアヌスの「正義は各人に彼の権利を与える堅固な不断の意思である」

 事業関連法編では、アダム・スミスの「諸国民の富」から

 知的財産法編では、コーラーの「作者の努力の結晶である作品の運命は、作者の人格と不可分の関係にある。これはまさに正義の要求するところと考えなければならない」との言。

 改めて読み返すと、真に意味深長であって、今も変わらぬ人間の真理を鋭く衝いている!と今更乍らに痛感します。

弁護士らしくない話し(其の10)


 十勝へ行ってきました。
 
 日高山脈の東、帯広に泊って、南は、襟裳岬、北は、狩勝峠を訪ねてきました。
 松山千春も、鈴木宗男も、足寄の人でした。
 一世を風靡したJR広尾線の廃線跡の、愛国、幸福の各駅の名残りは、今も沢山の人がやって来ていました。
 
 8月の盆の頃合は、祭りが盛大で、題して「平原まつり」。
 北海盆唄が盛大に流れていました。
 
 真に広闊な一帯で、農業、酪農の大地でありました。
 
 坂本直行(190682)という画家がいます。
 六花亭の花柄包装紙の花の絵が有名ですが、1959(昭和34)年に画業に専念するまでは、1936(昭和11)年から十勝支庁の広尾郡広尾町様似で開拓民として牧場を営んでいたとのこと。
 北大山岳部のOB、日本山岳会の会員でもあり、利尻岳等々も多数描いています。


弁護士らしくない話し(其の9)


 面白い本を読みました。

「帳簿の世界史」4月に文藝春秋社から刊行されたもので、著者は、米国人のジェイコブ・ソール、訳者は、「トマ・ピケティの新・資本論」や「イスラム国テロリストが国家をつくる時(ロレッタ・ナポリオーニ著)」の村井章子。

 国家を統治することと国家財政を運営することとが如何に近接しているか、しかしその両立が如何に難しいかを明らかにしています。

 

 太陽王ルイ14世は、ある時期まで国家の会計報告に強い関心を持っていたものの、後半(?)その関心を一切示さなくなったとのこと。専制君主にとって、国の会計の実情などという凡そBad Newsであって知りたくもないもののようです。

 

 この話しは、専制君主、独裁者に固有のものかと思いきや、今日、Democracyを標榜する数多の国で、勿論我が国もその例に漏れず、主権者とされている国民諸氏は、会計報告にキチンと耳を傾けていようものかどうか・・・

 対岸の火事・・・という受け取り方では・・・