2021年7月8日木曜日

弁護士らしくない話し(其の35)


弟子松本晴充君を悼む

 

 我が弟子松本晴充君が去る6月18日に亡くなりました。

 彼との付き合いは、三十年の長きに亘るものでした。

 出会いの頃の彼にとって、私は、耳の痛い、難しい事ばかりを言う、真に難儀な少〻の年長者ということでありました。が、その後、突如、「師匠」と崇められ、「弟子入り」・・・とのコミカルな関係、珍妙な師弟関係もどきに至ったのは、1995年1月17日阪神淡路大震災の後、私がマラソンを俄に始め、思い起こしますと、その3年後の1998年3月に明石大橋マラソンに初めて一緒に参加したことがキッカケでした。

 私は少〻の距離10㎞でしたか、20㎞でしたかを走りましたが、彼と義兄のH氏とは最短の2、3㎞距離の部門に初めて参加、出走されました。年長の私がそこそこの距離を機嫌良く走ってゴールしたのを見て、断固、自分ももっと走るべし!と発奮されました。これを契機に、ハーフマラソン、フルマラソン、100kmマラソンへと順次距離を延ばし、最盛期は、毎週のようにアチコチの大会へ走りに行くという有様でした。

 彼は、現在は49店舗を擁する会社の代表取締役に就任された2003(平成15)年ころからは、距離42.195㎞のフルマラソンを共に走るようになりました。翌2004(平成16)年からは、100㎞マラソン、広島県福山市から愛媛県今治市まで朝5時から夜9時近くまで走る「しまなみ海道マラソン」に一緒に参加するようにもなりました。また、この間、私は元来、山登りを趣味としております関係から、北アルプス上高地も、果ては、台湾の新高山、現在は玉山3900m余にも一緒に足を延ばしたりしました。アメリカ西洋岸のロスアンゼルスのフルマラソンも共に走りました。モンゴルのウランバートルにて、早朝二人で町の中を走って、人目を引いたこともありました。2012年から5年間、鹿児島県の南の果て、与論島まで距離21㎞のハーフマラソンを走り、無料法律相談を催すということにも、その受付係を快く引き受け、協力をして呉れました。H氏も御一緒に、その後も、早春の上高地や年の暮れの1230日に畝傍・香具山・耳成の大和三山を巡り、関ヶ原古戦場まで足を延ばしたことも、指折り数えると12回、12年間ありました。また、この間、2004(平成16)11月からは、大阪中央ロータリークラブのメンバーとなり、2016(平成28)年7月からは、会長職を務められました。彼にとっては、充実した公私の生活であった筈です。真に良き友、良き弟子でありました。

 幽冥境を異にするに至った今となっては、唯この重い事実を受け留め、故人の御冥福を御祈りするのみであります。

 また、残された私達は、只〻貴君の思い出でを胸に精一杯生きて行く外ありません。

 我が弟子晴充クン、貴君は大いに頑張られ、良く生きられました。この点、師匠としては、大満足であります。真に有難う御座居ました。感謝と共に冥福を御祈りするばかりであります。

合 掌

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