2019年4月2日火曜日

弁護士らしくない話し(其の31)


津の「一身田」に行って来ました。

 檀那寺の制度、また、宗門改は、163738(寛永1415)年の島原の乱の経験から、17世紀の中頃、幕府の宗門改役の指導の下で、原則として毎年2月か、3月に、宗門人別改帳の作成と絵踏が実施され、また、特定の檀那寺への所属が義務づけられることとして始まったようです。
 そして、寺院がその檀徒に対して、キリシタンではなく、自分の檀家であることを保証した制度という意味から寺請制度とも言われます。寺請証文は、寺院が檀徒について、キリシタンではなく、自分の檀家であることを証明した文書であって、婚姻、転居、旅行などの際に、必要とされました。

 この点、私は、浄土真宗興正寺派の門徒ということであって、南無阿弥陀仏との念仏を唱えることになっています。開祖親鸞は、法然上人、法然坊源空の弟子であり、自身は、「教行信証」を、師の法然は、「選択本願念仏集」を夫〻著しています。

 ところが、仏の教えなるものも、人の集まりである教団という形で子〻孫〻と伝わると、人の世の常・・・どうも必然的に分派し、枝分れが避けられないもののよう。
 法然さんの浄土宗は、鎮西派と西山派とに先ず岐れ、次いでこれに長楽寺義と九晶寺義を加えて計4派となったものの、その後も、甚だ複雑な人の集まりの離合集散を経て、知恩院、永観堂禅林寺、粟生光明寺、深草誓願寺は、夫〻「総本山」とされ、増上寺、金戒光明等は、「大本山」とされているようです。
 一方、親鸞さんの浄土真宗→真宗は、西本願寺の「本願寺派」、東本願寺の「大谷派」、そして、高田山専修寺の「高田派」をはじめ十派に岐れており、「真宗十派」と言われています。なお、名称も、本願寺派は、浄土真宗と称し、その外は、真宗と称しています。この名称の違いは、浄土宗側からの反発が由来するとか。
 
 先日、高田山専修寺(たかださんせんじゅじ)に行って参りました。
 高田派は、親鸞が下野国高田、旧・栃木県芳賀郡二宮町、現・真岡市(2009年3月~)に開いた布教所としての如来堂を起源とするもの。高田門徒は、その後の本願寺派とも競ったとか。そして、寛政5(1464)年に、真宗高田派の中興の祖とされる10世真慧上人が無量寿院を建立。その後、元〻の高田専修寺が戦火に遭ったのを機会に、16世紀に伊勢の津に移り、万治元(1658)年には、津藩の二代藩主藤堂高次の四女が専修寺の門主に輿入れし、その際に、土地の寄進がされたとのこと。

  津市一身田(いっしんでん)町の現地には、高田本山専修寺の環濠に取り囲まれた壮大な伽藍が存在します。真宗独特に、親鸞像を祀った御影堂と本尊の阿弥陀如来と祀った如来堂が中心に聳え、その高さは、25mを超えるとのこと。見上げる視野には、その余の構築物等が一切入らず、真に壮観です。この二棟の建物は、国宝とのこと。
 また、この専修寺(せんじゅじ)には、親鸞の真筆の国宝も存在します(西方指南抄六冊、三帖和讃三冊)。

 ところで、私の家の宗旨は、真宗興正寺派ですが、真宗仏光寺(派)の14世経豪(きょうごう)が蓮如の門に投じ、経豪の子蓮秀(蓮教?)が功績により本願寺の一家衆に加えられ、同族の扱いを受け、永禄12(1569)年に本願寺の脇門跡となり、最終、明治9(1876)年に独立したものとの由。人の世の離合集散は、その慣いのようです。

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