2019年6月27日木曜日

弁護士らしくない話し(其の32)


アフリカの時代
                 ― ナイジェリア、ベナン ―
 
 NBAのドラフト1巡目の第9番目に八村 塁さんが指名されたとのスポーツ界のビッグニュース。塁さんは、お母さんが日本人で、お父さんが西アフリカのベナン人とのこと。
 ベナンとは、どこの、どのような国?と首を傾げる一方で、ひと月程前に刊行された「物語 ナイジェリアの歴史」島田周平著・中公新書・全274頁を丁度読み進めていました。ベナン共和国は、このナイジェリアの西の隣国。
 
 ナイジェリアという国は、アフリカで最大の人口1億9千万余を誇っており、経済規模(GDP)でも、G20のメンバーに入っている南アフリカを7~8%(2018年)上回っています。
 1960年にイギリスの植民地から独立した国であって、旧宗主国のイギリスをはじめ世界各国の各地に沢山のナイジェリア人が進出しています。
 最近の統計では、ナイジェリアに在留する邦人は百人余であるのに対し、日本に正規に滞在しているナイジェリア人は、三千人程とのこと。
 
 ところが、G20には、アフリカからは南アフリカが入っているにも拘わらず、ナイジェリアは入っていません。経済力の点からは、甚だ怪訝なところ。
 アフリカの巨人と言われるナイジェリアは、その大きな存在にも拘わらず、各種の不安定要素を抱えているようです。
 
 最近よく報道されるボコハラム。
 これは、2002年に北東部のマイドゥグリ(Maidugri)で結成された集団で、ハウサ語で「西洋の知識・教育システム」を意味するボコと、アラビア語で「禁忌(タブー)」を指すハラムを名乗っています。
 嘗って大きく報じられていたビアフラ(Biafra)内戦は、196770年にナイジェリアからの分離独立を図り、この内戦と飢餓とで、その死者数は、最大で300万人とも言われているようです。

 なお、これら西アフリカの一帯を、ギニア地方、ギニア湾岸諸国と言われることがありますが、
        Guinea:ギニア地方、アフリカ西部の沿岸地方
        Guiana:ギアナ、南米北東部の海岸地域
のこの2ツは、イギリス人でも紛らわしいようで、「てんじくねずみ」モルモットは、南米が原産であるにも拘わらず、アフリカ西部に由来するかのようにGuinea-PigGuinean-Pigと混同されているようです。
 
 そして、八村君のお父さんの国、ベナンですが、英語表示では、Republic of Beninですが、フランス語を公用語としており、République du Bénin(レピュブリク・デュ・ベナン)。英語表記の場合の発音は、リパブリック・オブ・ベニン。
 紛らわしいことに、東隣りのナイジェリアの東部に、以前、ベニン(Benin)王国が、その後ベニン市があります。
 1960年にフランスから独立した当初の国名は、ダホメ(ダオメ)共和国であったのですが、それでは地域名称で不適切とされ、大きくはギニア湾の中のベニン湾に面していることから、1975年に国名が変わりました。人口は、1千万人弱とのこと(2013年)。
 
 これらギニア湾岸は、スペイン、ポルトガルの大航海時代に始まり、次いで、英仏が覇権を争い、植民地獲得を目指していた時代には、西から東へ、胡椒(穀物)海岸、象牙海岸、黄金海岸、奴隷海岸と呼ばれていたとか。
 この伝によれば、国名コートジボアールは、文字通り、象牙海岸。The Gold Coastは、ガーナに、そして、the Slave Coastは、トーゴ、ベナン、ナイジェリアに、また、ベニン湾沿いとのこと。
 真に忌まわしい歴史であるも、人類の進歩の一階梯であることは争えないところ。
 天正遣欧使節(天正10(1582)年)の記録を見ていても、奴隷の存在は読み取れるところ。
 
 ところで、「大西洋奴隷貿易は歴史的過去ではない」という指摘が近年されていることが肝要。
 奴隷狩りによる社会の荒廃や個人レベルの精神的負担の大きさには計り知れないものがあり、近年の研究では、「奴隷貿易が終わって1世紀半以上が経過した今日においても、奴隷貿易が盛んであった社会の人〻は、血縁家族、近隣住民、同民族、地方政府の何れに対しても信頼感が低い」とのこと。
 
 ナイジェリアにおける北部地域と南の東部地域、西部地域の絶えざる不知の歴史を知ると、積極的と消極的とを問わず、過去の歴史の重さを今も担わされているのか・・・との感もします。

0 件のコメント:

コメントを投稿