文章表現の道具である文字についての話しです。
先日、咸臨丸に乗って太平洋を渡った万延遣米使節(注)の子孫の方の御話しを聞く機会がありました。
明治4年の岩倉遣米欧使節団の華々しさの陰に隠れているようですが、日本人が操船して太平洋を渡った壮挙です。
一方、大分(豊後)の日田に咸宜園という江戸後期に広瀬淡窓が開き、多数の門人を輩出した私塾があります。
咸臨丸と咸宜園とに用いられている「咸」とはどのような意味か?この「咸」が常日頃用いられているとは思われません。
カンとしか読めない文字で、その意味は、皆。つまり、全員とか、全てとか。
つまり、咸臨は、全員で事に臨む、当たる、という意味。一方、咸宜とは、万事宜しい、All Goodということのよう。
改めて漢字の多彩さを痛感。
1840年の阿片戦争から1945年の先の大戦までの百年余りの間の、隣国の凋落時期を思わず知らず物を見る基礎に置いているような人が多いように思われますが、私達は、日々使う文字をこの隣国伝来のモノに頼っています。
私達の使用している文字は、英語で表記すると、Chinese Characterとなります。
(注)万延元(1860)年の遣米使節は、安政5(1858)年に締結した日米修好通商条約(日本国米利堅合衆国修好通商条約。日米和親条約は、1854年)の批准書交換を目的として派遣されたもので、その正使は、新見豊前守正興で、その一行は、米軍艦のポーハタン(Powhatan、これは米先住民の族名。嘉永7(1854)年のペリー再訪時のうちの一隻)に乗って行きました。
これに加えて、別艦として派遣されたのが、咸臨丸で、木村摂津守喜毅、勝 麟太郎以下90余名が乗っていました。が、その操船は、米海軍士官ブルック大尉外10名に負っていました。
なお、咸臨丸は、幕府の発注でオランダのキンデルダイクで1856年に建造、進水し、翌57年に日本で引き渡された3本マストの木造スクリュー艦で、2012年まで大阪市が所有していたスクーナー型の帆船「あこがれ」と同じ大きさだったそうです。
そして、咸臨丸の最期は、1871年11月(新暦)に北海道の木古内の近くで座礁し、沈没。
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