ペリリュー パラオ
Peleliu と Palau
昨(2015)年8月13日にNHK総合で放映された「狂気の戦場ペリリュー-忘れられた島の記憶-」という番組があります。
南へ3200kmと言われています。東経135°、北緯7°くらいに位置していますから、文字通り当地からは真っ直ぐ南へ3000km余の位置です。
スペイン、ドイツに次いで、第一次大戦後、日本が国際連盟の信託統治をした島々です。
1944(昭和19)年4月に、中国の東北部(満州)から陸軍歩兵第2連隊が引き抜かれて、同地の防衛に当たることになりました。
その頃までは、バンザイ突撃、玉砕、自決・・・という戦術が一般化していたのですが、以後は、「持久戦」、ともかく粘って抵抗し、敵の消耗を招く・・・というような考え方、戦術の転換が中央から命じられていたようです。
ペリリュー島に設けた1600mの滑走路が、日米間の島の争奪戦の原因とか。
陸軍歩兵第2連隊ということですから、その員数は数千人、一方、攻め寄せるアメリカ軍は第1海兵師団ということですから、その数は1万人以上。そして、武器、食糧等の物量にも大きな差異・・・
同年9月15日から始まった戦闘は、海兵師団長が当初3日もあれば攻め落とす、と豪語していたものが、結局、11月24日までの攻防戦。死者は何れも1万名・・・
この間、連合軍司令官ダグラス・マッカーサーは、結局、パラオ・ペリリューは飛び越し、同年10月24日に、日本攻略の要石としていたフィリピンのレイテ島に上陸。
かくて、東洋一と囃されていたペリリューの1600m滑走路の攻防は全くの無為。
昨年パラオ共和国を訪問の両陛下がペリリュー島で黙祷を捧げられる光景が報じられていましたが、七十二年を経過した今に至り、このペリリューの激戦を踏まえてのものであることを知りました。
ところで、敗戦への足取りは、次の通り。題して、太平洋戦争敗戦史。
○ ミッドウェー海戦 1942年6月5日~7日○ アッツ玉砕 Battle of Attu(アリューシャン列島)1943年5月12日~29日
陸軍第7師団の穂積部隊 独立歩兵第301大隊
→ 要塞歩兵隊2650名
※「アッツ島玉砕」
○ キスカ撤退作戦(アリューシャン列島) 1943年7月29日
○ トラック島空襲「海軍丁事件」 1944年2月17日、18日
○ サイパンの戦い(ミクロネシア) 1944年6月15日~7月9日
マリアナ諸島陸軍第43師団と第2、第4海兵師団&第27歩兵師団
※「サイパン島同胞臣節を全うす」
○ マリアナ沖海戦 1944年6月19日、20日
○ ペリリューの戦い 1944年9月15日~11月24日
○ レイテ沖海戦 Battle of Leyte Gulf 1944年10月23日~25日
戦艦武蔵は、10月24日に沈没
○ 硫黄島の戦い 1945年2月19日~3月26日
○ 沖縄戦 1945年3月26日~6月23日
既に七月、次いで八月。八月に入ると、6日の広島への原爆投下、9日の長崎へのそれ、15日の敗戦・・・ということで、原爆の投下の故に、我が国が無条件降伏を促したポツダム宣言(1945年7月26日)を受諾したように一般的には受け取られているようです。
が、それは歴史的諸事実の直截な解釈とは言い難いようです。我が国の当時の指導者達は、一撃講和論と称される、せめて一矢を報いてから、有利な条件で講和に持ち込むべしと考えており、また、その講和の仲介をソビエト・ロシアに依頼し、期待していたようです。しかし、スターリンは、その前の2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後3か月以内の対日参戦を約束し、そして、現に、8月15日未明に戦端を開いて来ました。そこでポツダム宣言を受諾せざるを得なくなった、というのが歴史的事実です。
また、広島の原爆は、ウラニウム235爆弾であるのに対し、長崎のそれは、プルトニウム239爆弾です。その何れもを、既に始まっていた東西の対立に備えて実地に使用してみようという姿勢があったことは間違いの無いところでしょう。
我が国では、8月15日は終戦記念日と称され、恰も人為ならざる、自然現象であったかの如く事が終われりと表現されているように思われます。しかし、対日戦勝記念日Victory Over Japanは、どうも9月2日とされているようで、東京湾のミズーリ艦上での降伏条約の調印を以て太平洋戦争は終結した、という捉え方が我が国以外ではされているようです。
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