立法、司法、行政の三権について、相互に牽制し合うことによって、自由が保障されると説いたのは、モンテスキュー(1689~1755)(「法の精神」)と言われています。
もっとも、その動機は、貴族の特権を守ろうとする保守的動機からであったとも指摘されています。
後に、アメリカ憲法にも、フランス革命の人権宣言にも登場します。その一方で、民主主義の大波から君主の権限、立場を守ろうという保守的動機があったと言われています。法の安定性というものは、合理的な保守性というものにも根差すという一面が有るようです。
とは言え、我が日本国憲法にも、第4章国会、第5章内閣、そして、第6章司法とこれらの鼎立を掲げています。
にも拘わらず、前二者は、それなり市民の目には触れるものの、司法は、依然目に触れることの少ない、或は目に触れることがあっても、避けるに如かず・・・というような消極的な、関わり合うことにマイナスのイメージの強い存在となっています。
が、今日では、政府と沖縄県との争いですら、裁判所に持ち込まれており、更には、フィリピンと中国の南シナ海の領土問題ですら、国際仲裁裁判所に持ち出され、その結論が大きく報道されています。
ロシア選手のドーピング問題でも、WADAの判断とか、IOCの決定とか、CASスポーツ仲裁裁判所(Court of Arbitration for Sport)の結論とか・・・須らく尖鋭的な利害の対立は、それなりの第三者の審査に事を委ねて、問題を解決しようとすることが不可欠であることは、今日の世界のStandardのようであり、全世界的にも成熟しつつある認識、行動様式のように見受けられます。
然るに、我が国は、未だそのレベルに達しているのか、いないのか・・・和を以て貴と為す(注)、と言うばかりで、余りにも人任せが過ぎるのでは・・・
(注)「和を以て貴と為す」というのは、7世紀の十七条憲法が原始のように思われているようですが、この言葉は、論語の孔子(BC5、6世紀)の言葉としても、劉向(BC1世紀)が編んだ戦国策にも出て来ます。
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