北関東で、ベトナム人の実習生が老夫婦を死傷させたかのような報道がされています。
「ベトナム」「実習生」という言葉を聞くと、何とも早、不幸な事件である、と大いに心が痛むところです。 昭和15、16(1940、41)年の仏印進駐では、大変な迷惑を掛け、また、1955~75年のベトナム戦争では、甚大な災厄を経験した国であり、その人〻。
勿論、今回の犯人とされている人は、その後の世代の人であることは間違いのないところ。
それでも、親日的であり、勤勉と聞いている若者がこのような事件に関係したとされていることは、大いに心の痛むところです。
そして、法律家としては、その人の我が国における在留資格が実習生ということを聞くと、この実習生制度の危うさが又しても露呈したケースか、と嘆息せざるを得ないところ。
外国の人達に、我が国内で働いて貰う制度としては、古くは、研修生。次に、実習生。そして、昨年12月の法改正にて、漸く事実に即した制度となり、今春から、「特定技能」1号、2号というものが開始しました。
(「入管法」)
入管法「出入国管理及び難民認定法」は、昭和26(1951)年に政令319号として制定されて以来(制定時では、「政令」であったが、昭和27年4月28日以降は法律としての効力を有するように)、昨年12月の改正までに60余回の改正を経ています。
これら数多の改正の中でも、昭和57(1982)年以降は、難民条約・難民議定書への加入に伴い、難民認定業務を法務省入国管理局が担当することとなり、名称が只今の「出入国管理及び難民認定法」に改められました。
そして、昨年12月には、在留資格「特定技能1号」「特定技能2号」が新たに設けられ、4月から施行されています。
事此処に至るまでには、制定以降68ヶ年を数える中、平成10(1998)年以降の近〻20ヶ年の間に計30回余の法改正が立て続けに行なわれ続けていることが極めて特徴的です。
文字通り、只今現在を生き、ダイナミックに人〻を規律し、特に、外国人と外国人に関わる人〻にとって、文字通り生きているルールとして存在しています。
(外国人労働者)
昭和の時代(~1989年)においては、外国人労働者という言葉遣い自体珍しいものであったように記憶しています。つまり、外国人であって、日本で働いている人というものは、それなりの背景事情の下でのことと概ね考えられていました。
ところが、平成の時代(1989~2019年)に入って、労働者として我が国に入国する人達が加速度的に急増してきました。外国人労働者は、希有なものではなくなりました。
(「在留資格」と「活動」と「身分又は地位」)
そして、法令の規定振りとしては、平成に入って、「在留資格制度の意義と機能」を明確化し、どのような在留資格をもって在留する外国人が我が国(「本邦」と表現)において、どのような活動を行なうことが出来るか、ということを、その「別表第一」において具体的に規定するようになりました。
「在留資格」の取得、そして、その「在留資格」に基づいて本邦において行うことができる「活動」の範囲・内容が具体的に定められています。
一方、「別表第二」では、「本邦において有する身分又は地位」という表現が「活動」に変わって用いられています。
(在留資格「技能実習」)
1993(平成5)年以来、在留する外国人が報酬を伴う(否、むしろ、それを目的とする)「技能実習」に従事し、働くということが広く行なわれて来ています。
が、その実態としては、劣悪な労働環境に晒されていると問題が指摘されてもいます。
制度的沿革としては、海外進出した我が国の企業が現地社員を招聘したことから始まるようで、1981(昭和56)年に、「研修」との在留資格が設けられました。
その後、「研修」を経た者を対象に、1993(平成5)年からは、「特定活動」との在留資格を以ての技能実習が始められ、その後の入管法の改正(平成21年法79号)において、改めて「技能実習」という在留資格が設けられました。つまり、この間は、「特定活動」の在留資格で以て、「研修」後の技能実習が行なわれて来ていた訳です。そして、平成21(2009)年の法改正後、翌20(2010)年から在留資格としての「技能実習」が登場しました。
(国際的な非難)
技能実習という制度発足からは、四半世紀が経過していますが、この間、国連人権委員会の専門家からは、2009年時点で、「研修生や技能実習生制度内での虐待があること。これらは本来、一部アジア諸国への技能や技術の移転という善意の目的を備えた奨励すべき制度であるにもかかわらず、人身取引に相当するような条件での搾取的な低賃金労働に対する需要を刺激しているケースも多く見られる」、2010年時点で、「研修・技能実習制度は、往〻にして研修生・技能実習生の心身の健康、身体的尊厳、表現・移動の自由などの権利侵害となるような条件の下、搾取的で安価な労働力を供給し、奴隷的状態にまで発展している場合さえある。このような制度を廃止し、雇用制度に変更すべきである」との指摘を受けて来ています。
(在留資格「特定技能」)
そして、昨年に、これらを改善するべく、「研修」とか、「技能実習」とかではなく、正規に労働者としての外国人を受け容れるという趣旨の下、「特定技能」という在留資格が法改正によって新たに登場しました。
これは正面切って労働者の入国を受け容れたものです。
(まとめ)
我が国の入国管理は、外国人が海外からやって来て、一定期間滞在した後は、又海外へ帰って行く・・・ということを想定したシステムで以て長年営まれて来たように思われます。
勿論、その外国人が日本人になる、帰化という手続は、国籍法は認められて来ています。
帰化というのは、英語では、Naturalizationと表現します。
一方、明治以降、日本人が海外へ出て行って、其処に定住する、移民については、英語では、海外へ出向くのを、Emigration、海外から入って来るのは、Immigrationと表現されますが、前者が専らのテーマであって、後者については、戦後昭和26年の出入国管理法を見ても、基本的には想定されていなかったのではないか・・・という気がします。
これについては、早晩戻る、帰国することを前提にしか、外国人を受容して来ず、また、その後、研修生とか、実習生とか、その身分が安定しているとは言い難い「在留資格」しか、我が国で働く人達については、認めて来てはいませんでした。
これについて、昨年末の法改正、4月1日の施行ということで、「特定技能」という「在留資格」が新たに設定され、早晩、我が国に永続的に定着する、つまり帰国することの無い労働者の受け容れに至ることになりました。
これを以て、我が国は、移民を受け容れるようになったと評しても、強ち過言ではないでしょう。
2019年9月20日金曜日
2019年6月27日木曜日
弁護士らしくない話し(其の32)
アフリカの時代
― ナイジェリア、ベナン ―NBAのドラフト1巡目の第9番目に八村 塁さんが指名されたとのスポーツ界のビッグニュース。塁さんは、お母さんが日本人で、お父さんが西アフリカのベナン人とのこと。
ベナンとは、どこの、どのような国?と首を傾げる一方で、ひと月程前に刊行された「物語 ナイジェリアの歴史」島田周平著・中公新書・全274頁を丁度読み進めていました。ベナン共和国は、このナイジェリアの西の隣国。
ナイジェリアという国は、アフリカで最大の人口1億9千万余を誇っており、経済規模(GDP)でも、G20のメンバーに入っている南アフリカを7~8%(2018年)上回っています。
1960年にイギリスの植民地から独立した国であって、旧宗主国のイギリスをはじめ世界各国の各地に沢山のナイジェリア人が進出しています。
最近の統計では、ナイジェリアに在留する邦人は百人余であるのに対し、日本に正規に滞在しているナイジェリア人は、三千人程とのこと。
ところが、G20には、アフリカからは南アフリカが入っているにも拘わらず、ナイジェリアは入っていません。経済力の点からは、甚だ怪訝なところ。
アフリカの巨人と言われるナイジェリアは、その大きな存在にも拘わらず、各種の不安定要素を抱えているようです。
最近よく報道されるボコハラム。
これは、2002年に北東部のマイドゥグリ(Maidugri)で結成された集団で、ハウサ語で「西洋の知識・教育システム」を意味するボコと、アラビア語で「禁忌(タブー)」を指すハラムを名乗っています。
嘗って大きく報じられていたビアフラ(Biafra)内戦は、1967~70年にナイジェリアからの分離独立を図り、この内戦と飢餓とで、その死者数は、最大で300万人とも言われているようです。
なお、これら西アフリカの一帯を、ギニア地方、ギニア湾岸諸国と言われることがありますが、
Guinea:ギニア地方、アフリカ西部の沿岸地方
Guiana:ギアナ、南米北東部の海岸地域
のこの2ツは、イギリス人でも紛らわしいようで、「てんじくねずみ」モルモットは、南米が原産であるにも拘わらず、アフリカ西部に由来するかのようにGuinea-Pig、Guinean-Pigと混同されているようです。
そして、八村君のお父さんの国、ベナンですが、英語表示では、Republic of Beninですが、フランス語を公用語としており、République du Bénin(レピュブリク・デュ・ベナン)。英語表記の場合の発音は、リパブリック・オブ・ベニン。
紛らわしいことに、東隣りのナイジェリアの東部に、以前、ベニン(Benin)王国が、その後ベニン市があります。
1960年にフランスから独立した当初の国名は、ダホメ(ダオメ)共和国であったのですが、それでは地域名称で不適切とされ、大きくはギニア湾の中のベニン湾に面していることから、1975年に国名が変わりました。人口は、1千万人弱とのこと(2013年)。
これらギニア湾岸は、スペイン、ポルトガルの大航海時代に始まり、次いで、英仏が覇権を争い、植民地獲得を目指していた時代には、西から東へ、胡椒(穀物)海岸、象牙海岸、黄金海岸、奴隷海岸と呼ばれていたとか。
この伝によれば、国名コートジボアールは、文字通り、象牙海岸。The Gold Coastは、ガーナに、そして、the Slave Coastは、トーゴ、ベナン、ナイジェリアに、また、ベニン湾沿いとのこと。
真に忌まわしい歴史であるも、人類の進歩の一階梯であることは争えないところ。
天正遣欧使節(天正10(1582)年)の記録を見ていても、奴隷の存在は読み取れるところ。
ところで、「大西洋奴隷貿易は歴史的過去ではない」という指摘が近年されていることが肝要。
奴隷狩りによる社会の荒廃や個人レベルの精神的負担の大きさには計り知れないものがあり、近年の研究では、「奴隷貿易が終わって1世紀半以上が経過した今日においても、奴隷貿易が盛んであった社会の人〻は、血縁家族、近隣住民、同民族、地方政府の何れに対しても信頼感が低い」とのこと。
ナイジェリアにおける北部地域と南の東部地域、西部地域の絶えざる不知の歴史を知ると、積極的と消極的とを問わず、過去の歴史の重さを今も担わされているのか・・・との感もします。
2019年6月18日火曜日
弁護士らしい話し(其の34)
外国人労働者の受け入れ
昨年12月、出入国管理及び難民認定法(昭和26年政令第319号)の「第2条の2」が設けられ、「特定技能1号」「同2号」という在留資格が新たに登場しました。
「特定技能1号」では、「外食業技能測定試験」と「日本語能力判定テスト」「日本語能力試験(N4以上)」とをクリアーすることが求められます。(日本語能力として、日常生活に支障の無いレベルは、もう1ランク上の「N3」という指摘もありますが)
「特定技能1号」では、「外食業技能測定試験」と「日本語能力判定テスト」「日本語能力試験(N4以上)」とをクリアーすることが求められます。(日本語能力として、日常生活に支障の無いレベルは、もう1ランク上の「N3」という指摘もありますが)
1970年代にヨーロッパを訪れたときには、現地で外国人の労働者を見掛けた記憶は有りませんが、1980年代にアメリカ(ニューヨーク)を訪ねたときには、特に外食関係のワーカーは、その殆どが有色人種であり、アジア系が圧倒的であることに驚いたことがあります。
これを単純にヨーロッパとアメリカとの相違点と長らく思い込んでいましたが、改めて振り返って考えると、1970年代のヨーロッパと1980年代のアメリカとでは、場所の違いではなく、時期の違いであったことに漸く気付いたという次第です!!
これを単純にヨーロッパとアメリカとの相違点と長らく思い込んでいましたが、改めて振り返って考えると、1970年代のヨーロッパと1980年代のアメリカとでは、場所の違いではなく、時期の違いであったことに漸く気付いたという次第です!!
そして、21世紀の我が日本!
幻の単一民族国家たる我が日本も、その歴史を丁寧に見て行くと、外国人、非日本人が居なかった時代は無い筈、との言説が今日では主流の様です。
幻の単一民族国家たる我が日本も、その歴史を丁寧に見て行くと、外国人、非日本人が居なかった時代は無い筈、との言説が今日では主流の様です。
それでも、我〻は、その使用言語とメンタリティーにおいて、日本語、日本人だけの国・・・とのみ事を考えて長年月を送って来たところです。
しかし、社会の高齢化に伴なって、少子化の進行、高齢者の増加、労働人口の減少を前に、これまでも事実としては、「(技能)研修(生)」の受け入れをしてはいたものの、欺瞞的である面も多〻有り、これからは、正面切って、外食業をはじめとする14業種で最大34万5千人を受け入れる方向とのことです。
ところで、これら資格では、試験に合格することを必要としますが、特に、「特定技能2号」では、建設、造船という職業ジャンルが検討されているとのことで、この在留資格は、家族の帯同も可とし、在留期間の上限も無いとのことです。(1号は5年間の有期)
であってみれば、この「特定技能2号」では、無期限の「定住者」となることも可能であるところ、かくては「移民」とどこか異なるものか・・・同じか・・・。それでも、「移民」に非ずとの説明がされています。
しかし、社会の高齢化に伴なって、少子化の進行、高齢者の増加、労働人口の減少を前に、これまでも事実としては、「(技能)研修(生)」の受け入れをしてはいたものの、欺瞞的である面も多〻有り、これからは、正面切って、外食業をはじめとする14業種で最大34万5千人を受け入れる方向とのことです。
ところで、これら資格では、試験に合格することを必要としますが、特に、「特定技能2号」では、建設、造船という職業ジャンルが検討されているとのことで、この在留資格は、家族の帯同も可とし、在留期間の上限も無いとのことです。(1号は5年間の有期)
であってみれば、この「特定技能2号」では、無期限の「定住者」となることも可能であるところ、かくては「移民」とどこか異なるものか・・・同じか・・・。それでも、「移民」に非ずとの説明がされています。
なお、移民とは、広辞苑にては、次の通り定義しています。
「他郷に移り住むこと。特に、労働に従事する目的で海外に移住すること。また、その人。」英語では、immigrant , emigrant。
「他郷に移り住むこと。特に、労働に従事する目的で海外に移住すること。また、その人。」英語では、immigrant , emigrant。
千年余り前には、半島の百済からの亡命者、その人達を大量に受け入れたことがありましたが、その後には、コチラから出て行くばかりであって、今又新たに入って来る人達にどのように臨むかが大きく問われている、ということのようです。
そして、そもそも国際化には、発展的な意味合いと共に、逆に異文化との摺り合わせを求められる、結構Stressfulな面が備わっているところ、これらをどのように折り合わせて行くか、文化的な課題も大きいところです。
2019年4月2日火曜日
弁護士らしくない話し(其の31)
津の「一身田」に行って来ました。
檀那寺の制度、また、宗門改は、1637、38(寛永14、15)年の島原の乱の経験から、17世紀の中頃、幕府の宗門改役の指導の下で、原則として毎年2月か、3月に、宗門人別改帳の作成と絵踏が実施され、また、特定の檀那寺への所属が義務づけられることとして始まったようです。
そして、寺院がその檀徒に対して、キリシタンではなく、自分の檀家であることを保証した制度という意味から寺請制度とも言われます。寺請証文は、寺院が檀徒について、キリシタンではなく、自分の檀家であることを証明した文書であって、婚姻、転居、旅行などの際に、必要とされました。
この点、私は、浄土真宗興正寺派の門徒ということであって、南無阿弥陀仏との念仏を唱えることになっています。開祖親鸞は、法然上人、法然坊源空の弟子であり、自身は、「教行信証」を、師の法然は、「選択本願念仏集」を夫〻著しています。
ところが、仏の教えなるものも、人の集まりである教団という形で子〻孫〻と伝わると、人の世の常・・・どうも必然的に分派し、枝分れが避けられないもののよう。
法然さんの浄土宗は、鎮西派と西山派とに先ず岐れ、次いでこれに長楽寺義と九晶寺義を加えて計4派となったものの、その後も、甚だ複雑な人の集まりの離合集散を経て、知恩院、永観堂禅林寺、粟生光明寺、深草誓願寺は、夫〻「総本山」とされ、増上寺、金戒光明等は、「大本山」とされているようです。
一方、親鸞さんの浄土真宗→真宗は、西本願寺の「本願寺派」、東本願寺の「大谷派」、そして、高田山専修寺の「高田派」をはじめ十派に岐れており、「真宗十派」と言われています。なお、名称も、本願寺派は、浄土真宗と称し、その外は、真宗と称しています。この名称の違いは、浄土宗側からの反発が由来するとか。
先日、高田山専修寺(たかださんせんじゅじ)に行って参りました。
高田派は、親鸞が下野国高田、旧・栃木県芳賀郡二宮町、現・真岡市(2009年3月~)に開いた布教所としての如来堂を起源とするもの。高田門徒は、その後の本願寺派とも競ったとか。そして、寛政5(1464)年に、真宗高田派の中興の祖とされる10世真慧上人が無量寿院を建立。その後、元〻の高田専修寺が戦火に遭ったのを機会に、16世紀に伊勢の津に移り、万治元(1658)年には、津藩の二代藩主藤堂高次の四女が専修寺の門主に輿入れし、その際に、土地の寄進がされたとのこと。
津市一身田(いっしんでん)町の現地には、高田本山専修寺の環濠に取り囲まれた壮大な伽藍が存在します。真宗独特に、親鸞像を祀った御影堂と本尊の阿弥陀如来と祀った如来堂が中心に聳え、その高さは、25mを超えるとのこと。見上げる視野には、その余の構築物等が一切入らず、真に壮観です。この二棟の建物は、国宝とのこと。
また、この専修寺(せんじゅじ)には、親鸞の真筆の国宝も存在します(西方指南抄六冊、三帖和讃三冊)。
ところで、私の家の宗旨は、真宗興正寺派ですが、真宗仏光寺(派)の14世経豪(きょうごう)が蓮如の門に投じ、経豪の子蓮秀(蓮教?)が功績により本願寺の一家衆に加えられ、同族の扱いを受け、永禄12(1569)年に本願寺の脇門跡となり、最終、明治9(1876)年に独立したものとの由。人の世の離合集散は、その慣いのようです。
ところが、仏の教えなるものも、人の集まりである教団という形で子〻孫〻と伝わると、人の世の常・・・どうも必然的に分派し、枝分れが避けられないもののよう。
法然さんの浄土宗は、鎮西派と西山派とに先ず岐れ、次いでこれに長楽寺義と九晶寺義を加えて計4派となったものの、その後も、甚だ複雑な人の集まりの離合集散を経て、知恩院、永観堂禅林寺、粟生光明寺、深草誓願寺は、夫〻「総本山」とされ、増上寺、金戒光明等は、「大本山」とされているようです。
一方、親鸞さんの浄土真宗→真宗は、西本願寺の「本願寺派」、東本願寺の「大谷派」、そして、高田山専修寺の「高田派」をはじめ十派に岐れており、「真宗十派」と言われています。なお、名称も、本願寺派は、浄土真宗と称し、その外は、真宗と称しています。この名称の違いは、浄土宗側からの反発が由来するとか。
先日、高田山専修寺(たかださんせんじゅじ)に行って参りました。
高田派は、親鸞が下野国高田、旧・栃木県芳賀郡二宮町、現・真岡市(2009年3月~)に開いた布教所としての如来堂を起源とするもの。高田門徒は、その後の本願寺派とも競ったとか。そして、寛政5(1464)年に、真宗高田派の中興の祖とされる10世真慧上人が無量寿院を建立。その後、元〻の高田専修寺が戦火に遭ったのを機会に、16世紀に伊勢の津に移り、万治元(1658)年には、津藩の二代藩主藤堂高次の四女が専修寺の門主に輿入れし、その際に、土地の寄進がされたとのこと。
また、この専修寺(せんじゅじ)には、親鸞の真筆の国宝も存在します(西方指南抄六冊、三帖和讃三冊)。
ところで、私の家の宗旨は、真宗興正寺派ですが、真宗仏光寺(派)の14世経豪(きょうごう)が蓮如の門に投じ、経豪の子蓮秀(蓮教?)が功績により本願寺の一家衆に加えられ、同族の扱いを受け、永禄12(1569)年に本願寺の脇門跡となり、最終、明治9(1876)年に独立したものとの由。人の世の離合集散は、その慣いのようです。
弁護士らしい話し(其の33)
法意識と法文化等について
ニュージーランドのクライストチャーチでの銃乱射事件、テロ行為は、真にヒドイ話しであります。
その隣国、オーストラリアでは、我が国の自衛隊と合同演習をする話しが、我が国が死刑制度を存続していることから難行しているとのこと。
つまり、我が国法の適用があった場合、最悪死刑ということであれば、オーストラリア国民としては、受け容れ難いから、ということのようです。真に周到な考察・・・と妙に感心をしております。
他方、周到と言えば、テロ行為で逮捕された犯人をメディアに晒すも、その顔にはボカシがかけられていました。あくまでも、刑事裁判で結論が出されるまでは、無罪の推定が働くということのよう。
我が国における扱いと比較すると、大いに考えさせられるところです。
その一方で、漸く銃規制へ大きく舵が切られるような報道にも接しています。
自動式の銃について、今後は厳しく規制がされるような報道。確かに自動式の銃、すなわち連続発射の出来る殺傷力の大きいものは、恐らく狩猟用というよりは、対人、対紛争用のようで、一般的には、その必要は考え難いところ。
嘗ては、オーストラリアは、白豪主義と言われ、明らかに白人を他の人〻と比して優遇するような施策が採用されていた筈。
ニュージーランドとオーストラリアは、近くても遠い国なのかどうか・・・その文化は、どのように類似し、どのように離隔しているものか・・・
今回の犯人のテロ行為は、真に旧態依然たる、人種差別的な愚行の極み・・・
異文化を先ず拒むのではなく、虚心坦懐に心を開いて、好奇心と共に、受容する度量が問われる時代になりつつあるようです。
ムスリムの人達のタブーとハラルは頭では理解しつつありますが、それでも先立って、デパートに設けられた「祈祷室」は、少〻驚きました。
が、これは既にかなり普及しているとか。JR大阪駅にも!
その隣国、オーストラリアでは、我が国の自衛隊と合同演習をする話しが、我が国が死刑制度を存続していることから難行しているとのこと。
つまり、我が国法の適用があった場合、最悪死刑ということであれば、オーストラリア国民としては、受け容れ難いから、ということのようです。真に周到な考察・・・と妙に感心をしております。
他方、周到と言えば、テロ行為で逮捕された犯人をメディアに晒すも、その顔にはボカシがかけられていました。あくまでも、刑事裁判で結論が出されるまでは、無罪の推定が働くということのよう。
我が国における扱いと比較すると、大いに考えさせられるところです。
その一方で、漸く銃規制へ大きく舵が切られるような報道にも接しています。
自動式の銃について、今後は厳しく規制がされるような報道。確かに自動式の銃、すなわち連続発射の出来る殺傷力の大きいものは、恐らく狩猟用というよりは、対人、対紛争用のようで、一般的には、その必要は考え難いところ。
嘗ては、オーストラリアは、白豪主義と言われ、明らかに白人を他の人〻と比して優遇するような施策が採用されていた筈。
ニュージーランドとオーストラリアは、近くても遠い国なのかどうか・・・その文化は、どのように類似し、どのように離隔しているものか・・・
今回の犯人のテロ行為は、真に旧態依然たる、人種差別的な愚行の極み・・・
異文化を先ず拒むのではなく、虚心坦懐に心を開いて、好奇心と共に、受容する度量が問われる時代になりつつあるようです。
ムスリムの人達のタブーとハラルは頭では理解しつつありますが、それでも先立って、デパートに設けられた「祈祷室」は、少〻驚きました。
が、これは既にかなり普及しているとか。JR大阪駅にも!
2019年3月15日金曜日
弁護士らしくない話し(其の30)
徳之島へ行ってきました
南西諸島、薩南諸島へ機会が有れば・・・と出向いています。
これまでに行ったことがあるのは、石垣島、西表島、沖縄本島、そして、無料法律相談会&マラソンと称して5回足を運んだ与論島!
与論島は、沖縄の本土復帰(1972年5月)までは、この島が日本の南端と意識されて、観光客で大変に賑わったようです。
この島を最初に訪れたのは、八年程前の無料法律相談会に参加してのことですが、その翌年から五回連続しての押し掛け、ハーフのRun&相談会!を行ない、昨年からは、息子(福岡県弁護士会所属)が地元の方〻と一緒に続けて呉れています。
その後、与那国島(2015年)も訪ね、また、離島繋がりで小笠原父島、母島(2016年)にも足を延ばしました。小笠原は、東京都大島郡小笠原村です。
また、那覇マラソン(フル)も、過去に3回走っています。
近時は、甚だ控え目な10㎞のランを、奄美大島の向かいに見える加計呂麻島でポツリポツリと続けている状況。
この加計呂麻島は、フーテンの虎の最終作品のロケ地であり、もっと古くは、特攻兵器「震洋」の基地が昭和20年夏にはありました。昭和20年3月26日、沖縄戦が始まったものの、その失陥は時間の問題となり、米軍の本土攻撃に備えるべし、として登場したものが、特殊兵器、特攻兵器と称する全長5.1m、速力23kt、爆薬250kg搭載の「震洋」です。1人乗りの1型と、2人乗りの51型(若干大きく、全長6.5m、速力25kt)とがあり、厚さ7mmのベニヤ板製のボートで、トラックのエンジンを搭載したそうです。それもガソリンが欠乏して木炭車に代って車から外されたものを。
総数約6200隻が建造されたものの、さしたる戦果が有ったとの記録は無い模様。
私小説作家の島尾敏雄は、昭和19年10月に、加計呂麻島の呑之浦の第18震洋隊の隊長になり、その経験から、「出発は遂に訪れず」を書いています。
一方、徳之島の西海岸の東シナ海を臨む犬田布岬には、戦艦大和の慰霊塔が建てられています。昭和20年4月7日、坊ノ岬沖海戦と称する、その実、航空機による虐殺のような集中攻撃を受けて、挙げ句、戦艦大和の沈没は、随伴艦の乗組員も併せて、3700名余の戦死者を出しています。なお、アメリカ側の損害は、真に僅少(墜落は僅かに6機とか・・・)。
ところで、坊ノ岬は、南さつま市、旧鹿児島県川辺郡坊津町の南西端の岬であって、徳之島の犬田布岬とは、数百キロメートルは優に離れています。
2019年3月8日金曜日
弁護士らしくない話し(其の29)
鰥寡孤独
カンカコドクと読みます。
その意味は、妻のない男(やもお)と夫のいない女(やもめ)と親のない子、みなしごと子のない年寄りの四ツを並べて、よるべの(寄方、寄辺)のない人〻を指すとのこと。
英語では、Widower、Widow、Orphanの表現は有っても、一人暮らしの老人=孤老を一語で指すものは無い模様。
改めて中国語の奥深さを感じるところです。
とは言え、簡体字を以て、このような言葉が書き現わされ得るものかどうか・・・
言葉は、書き記され、書き表されないようになったときには、亡んでゆくようです。
我が国は、明治までは、ともかく漢籍を読みこなすこと、そのことが教養でした。
明治の文豪、鴎外の小説を読んでいると、その漢語の語彙の豊かさに圧倒されるところがあります。
鴎外の生涯は、1862~1922年、つまり文久2年から大正11年までの丁度60年であって、大正から明治に移る頃に、丁度50歳!
その意味は、妻のない男(やもお)と夫のいない女(やもめ)と親のない子、みなしごと子のない年寄りの四ツを並べて、よるべの(寄方、寄辺)のない人〻を指すとのこと。
英語では、Widower、Widow、Orphanの表現は有っても、一人暮らしの老人=孤老を一語で指すものは無い模様。
改めて中国語の奥深さを感じるところです。
とは言え、簡体字を以て、このような言葉が書き現わされ得るものかどうか・・・
言葉は、書き記され、書き表されないようになったときには、亡んでゆくようです。
我が国は、明治までは、ともかく漢籍を読みこなすこと、そのことが教養でした。
明治の文豪、鴎外の小説を読んでいると、その漢語の語彙の豊かさに圧倒されるところがあります。
鴎外の生涯は、1862~1922年、つまり文久2年から大正11年までの丁度60年であって、大正から明治に移る頃に、丁度50歳!
大正5(1916)年前半に著した「渋江抽斎」には、「技を售ろうという念がない」「老驥櫪に伏す・・・」とあって、漢和辞典に頼ることになります。
「售る」は、「讎」の俗字であって、むくいるの意から転じて、「うる」の意の専用字となった、とのこと。
ならば、馴染んでいるところの「売る」は?元〻「買」「賣」に由来し、「うりかい」のうち「うる」の意味を主に表わすようになったとのこと。
一方、老「驥」がすぐれた馬を指すことは分かっても、「櫪に伏す」とは??馬が厩の中で寝ている意から転じて、老人が人の養いを受けていることを指すとのこと。
真に豊かな漢語の表現ながら実にとつおいつの、必死の読み進み振り・・・
(これは、只今のカタカナ文字多用の現代文を意味を理解しつつ読み進めることがどこまで出来ているのか?ということと通底するものか、しないものか・・・
昨今、新聞誌上での書籍の広告などを見ていますと、子供に限らず、大人であっても、その人の能力とは、語彙の多少に比例するとするものが多い様子。
昨今、新聞誌上での書籍の広告などを見ていますと、子供に限らず、大人であっても、その人の能力とは、語彙の多少に比例するとするものが多い様子。
とは言え、我が日本語は、特にオノマトペ(擬音語、擬態語)の数が突出しているところ、このようなオノマトペは、豊かな語彙を築くものか否か、疑問無しとはしない模様。少なくとも、仲間内での意思の疎通には大いに寄与するであろうものの、より大きな交わりの中では、相互の理解、意思の疎通に寄与するものか?本来的な語彙、用語の幅を痩せ衰えさせないものか・・・
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