2018年10月12日金曜日

弁護士らしくない話し(其の28)


帝国と皇帝とは別!?

 古代ローマは、王政→共和政→帝政の順番で推移したとのこと。

 共和政から帝政へ、というのは?この背景事情がどうにもスッキリとは胸に落ちぬまま、齢を重ねて来ました。
 塩野七生の「ローマ人の物語」を読んでも、その後に著した「ギリシャ人の物語」を読んでも、どうにも今一得心が行かないままでした。
 共和政の不効率とか、ギリシャの場合は、衆愚政に堕したから・・・とかは、一見それなりの説明とは思いつつも、スッキリ得心出来ないままでした。
 勿論、近くは、18世紀、19世紀、革命後のフランスに、ナポレオン・ボナパルトが現われた事実。そして、その後も、これはナポレオン三世の帝政にまで至ったという事実。

 英国の女流研究者(Mary Beard)が著した「SPQR(注1)ローマ帝国史」1、2巻、全723頁を読みました。扱われている時代は、B..63年からA..212年。「カティリナの陰謀」から「アントニヌス勅令(注2)」まで。

 1979年公開のメル・ギブソン主演の映画マッドマックスでは、近未来が荒廃した世界として描かれ、1981年のマッドマックス2(注3)1985年のマッドマックス/サンダードーム(注4)2015年のマッドマックス/怒りのデス・ロード(注5)、これらの近未来像は、何れもが荒廃した世界ということです。
 何故に、明るい未来像が描かれないのか?
 化石燃料の枯渇と核攻撃の応酬・・・どうにも、欧米系、ハリウッド系の映画にては、未来像は暗鬱なものである様子。

 東洋には、桃源境とシャングリラという理想境がある一方、欧米系は、アダムとイブのエデンの国からの追放以来、その理想境は、未来に描かれるのではなく、過去を遡って追憶する形であることが多い模様。

 これは一説によれば、農耕社会は、稔り豊かな未来像を将来に向かって描き得るのに対して、狩猟社会では、獲物は減少して行き、理想境は過去を振り返ることによってしか得られないから、とか。

 マア凡庸な理想境話しに耽るよりは、「SPQRローマ帝国史」全2巻は、多くのことを考えさせて呉れました。
 共和政は、エゴの衝突と貧富の格差に喘いでいたこと。
 ローマ人が求めていたのは、只〻自由であったこと。
 人というものは、何と愚かしく、又何と愛すべきものであるか、を。
 ギリシャとローマの違いを改めて考えるには、プルタルコスの「対比列伝(英雄伝)」を丁寧に読まなければならない、とも。

 そして、その後、カエサルのガリア戦記を読みました(中倉玄喜(訳)「〈新約〉ガリア戦記」2008年2月27日 PHP研究所刊)。
 すると、学生時代の騒がしかった頃、口〻に叫ばれていた(アメリカの)帝国主義反対!とのシュプレヒコール(独語 Sprechchor 朗読的合唱)の中の帝国主義の意味を改めて考え、漸くその一端が理解出来たように思われました。

 皇帝が頂点に立つから、帝国なのではない。
 国が他の国の上に立つから、これを以て帝国主義と称し、民主主義国家、国内的には民主主義が貫徹されていようとも、他国をその支配に置くから、これを以て帝国主義と表現する、という当たり前の事を漸う漸う語義として理解しました。

 そして、ローマ帝国は、カエサルの後、甥のオクタヴィアヌスがアウグストゥスとして元首政(プリンキパトゥス)を敷き、皇帝が続いて、文字通り皇帝の統括するようになった後は勿論ながら、それ以前の共和政(レス・プブリカ)と呼ばれた時代も、帝国であったという事実も、やっと理解しました。



(注1) Senatus Populus Que Romanus
(注2) 帝国居住の全自由民にローマ市民権を付与。帝国の都市国家的な名残を消滅させた。
(注3) 枯渇した石油を巡っての、石油精製所の取り合い。
(注4) 核戦争後の世界。
(注5) 核兵器による大量殺戮戦争後の汚染された世界。

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