2017年3月15日水曜日

弁護士らしくない話し(其の20)

坂東三十三ヶ所の結願
 遡ること12年前の5月に開始した坂東三十三ヶ所観音霊場巡りを3月に完了、結願。
 鎌倉の杉本寺を振り出しに、都心の第13番金龍山浅草寺を経て、北西は、第16番水澤寺、最北は、第21番八溝山日輪寺、東端は、犬吠崎近くの第27番円福寺、南端は、第33番補陀洛山那古寺。
 実質、丸15日間を要しました。
 神奈川、埼玉、東京、群馬、栃木、茨城、千葉と関東を巡りました。
 このような巡拝に出掛けなければ、恐らく一生訪れる機会が無いような、北関東の各地を巡ることが出来ました。

 観音信仰は、妙法蓮華経の「観世音菩薩普門品」に由来するとのことですが、私には、般若心経の「観自在菩薩」の方に親しみを覚え、摩訶般若波羅蜜多心経を唱えることを専らとしておりました。

 改めて振り返ると、平成17(2005)年5月に始めたものの、平成21(2009)年~26(2014)年の丸6年間は中断。結局、出掛けたのは、平成17(2005)年、19(2007)年、20(2008)年、27(2015)年、28(2016)年、29(2017)年の6ヶ年、7シーズンということでした。
 鎌倉市内こそ徒歩のみで巡りましたが、その後は、駅から、バス停から、そして、果ては、レンタカーで走るという為体。
 それでも関東一円を楽しく訪れることが出来ました。
 観音霊場三十三ヶ所なる設定は、観世音菩薩が衆生の救済の為に、その身を三十三身に変現させるとの由来。
 極楽往生の為に資するかどうかはともかく、只管霊場、札所を訪ね、巡るというのは、それなりに細かな日常を忘れ、自己目的的に振る舞うということで面白いものです。

 次には、秩父三十三ヶ所を目指すべきか、それとも信濃の善光寺、或は、北向観音を目指すべきか・・・
 それとも四国八十八ヶ所のうち、阿波に次いで、土佐一国のみを巡ることにするか・・・

2017年3月7日火曜日

弁護士らしくない話し(其の19)


インドネシアに行きました

 インドネシアのジョグジャカルタへ行ってきました。
 世界遺産の仏教遺跡ボロヴドゥールの夕映えを堪能しました。次は、是非その朝焼けを体験したいと思っています。

 ところで、今回の旅行は、孤児院への支援というテーマでした。3ヶ所の施設を回って、至って細やかですが、それなりに精一杯の慰問(?)をさせて貰いました。
 その帰りのバスの中で、自らの来し方に思いを至し、既に亡くなっている両親のことをしみじみと思い出していました。父母の恩ということを今更乍らに思い至りました。
 人生の砂時計の砂は、2/3以上が既に下に落ちています。そのような時になって、漸く、文字通りしみじみと父母のことを思い起こしました。

 インドネシアは、東南アジアの大国であり、世界一のムスリムの国です。オランダからの独立には、日本が手を貸したとも言われ、ODAでは常に最大の相手国でした。とは言え、首都ジャカルタは、1000万人以上の大都市で、その旧名は、バタビア。これは、古くは、種子島に鉄砲を伝えたポルトガル船、これより近くは、長崎の出島商館に人を派遣していたオランダ、そして、先の大戦では、軍事占領をしたというところ。
 文字通り我が国の長い歴史の中で極めて枢要な地位を占めている土地柄。

 その地の孤児院を訪れ、初めて父母の事共をしみじみ思い出し、自らのこれまでの至ら無さを深く深く反省するという体験をしました。
 何とも早、纏りの無い話しですが、日常を遠く離れ、日々の慌しさとも距離を置くことによって、改めて心底から自らを省ることが出来ることに、漸く気付いた新鮮さです。
 孤児として人生をスタートするということは、文字通りハードな人生であり、恐らく想像を絶する厳しいものがあるのだろうと思われます。
 自らを省みて、恥入ることなく、胸を張れるように、改めて日々努めるべきことを、甚だ平々凡々乍ら、漸う思い至りました。
 また、大阪にも孤児も、孤児院も有る筈ですが、距離を置いて見ることが出来なければ、そのハードさに打ちのめされ、これらを直視し難い弱さが自らの内に有ることにも、改めて気付かされました。

2016年12月28日水曜日

弁護士らしくない話し(其の18)


参州吉良
 
 参州吉良へ行ってきました。
 吉良上野介の知行地です。
 平成の大合併以降は、愛知県西尾市吉良町ということになっています。
 
 上野介と言えば、忠臣蔵のHeelということになっており、地元での名君としての誉れと相反すること甚だしいものがあります。
 赤穂浪士の討ち入り(1703年)の前に、「浄瑠璃坂の仇討ち」という事件があり(1672年)、これは自害した父の仇を討ったということで、世上大いに賞賛され、浪士は他藩に高禄で召し抱えられたとのこと。
 が、この間に、時の将軍は、文治政治を唱えた第五代の綱吉に変わっており(16801709年)、例の「悲劇」の顚末となったという次第。
 
 また、この前には、荒木又右衛門の伊賀越、鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討)があり(1634年)、これらは「江戸の三大仇討ち」と称するとか。
 
 扨て、吉良の話しに戻ります。名鉄「上横須賀駅」の前には、地元の三名士のモニュメントが立っています。時代の順では、吉良上野介義央(よしひさ、よしなか)、吉良の仁吉こと太田仁吉、そして、尾崎士郎の三人です。
 
 義央は、忠臣蔵の話しとは大いに違い、地元民から敬愛された名君であったようです。(常識的に考えても、どのような行き違いがあったにせよ、殿中で刀を抜いて切り付けるというのは、常軌を逸していたことには間違いないようです。)
 吉良の仁吉は、天保年間の荒神山の戦いで妻を離縁してまで義理に殉じた侠客ということです。
 そして、この話しを世に広めたのは、「人生劇場」の作家・尾崎士郎ということで、実に面白い組み合わせの、三名士です。
 
「人生劇場」は、尾崎士郎の自伝的大河小説で、昭和8(1933)年から34(1959)年まで、新聞小説として続いたとか。
 この「人生劇場」は、村田英雄の歌謡曲で有名で、「やると思えばどこまでやるさ」「義理がすたればこの世は闇だ」「時世時節は変わろとままよ」「おれも生きたや仁吉のように」というフレーズで人口に膾炙しています。作詞家は、佐藤惣之助で、昭和13(1938)年に発表されています。が、浪曲師出身の演歌歌手村田英雄が、昭和33(1958)年に古賀政男に見出され、「人生劇場」をリバイバルヒットさせたとか。
 
 東映映画「人生劇場『飛車角と吉良常』」(昭和33(1968)年)では、主役の飛車角を鶴田浩二が、また、吉良常を辰巳柳太郎が演じていました。この人物の本名は、太田常吉で、吉良の仁吉の血ひく・・・という設定でした。
 
 ところで、忠臣蔵の発端の刃傷の原因説の中に、吉良の塩と赤穂の塩の市場争いがある、というのもあるようです。確かに、吉良の塩というのは、良質なものであったようである一方で、昭和に幕引きがされる前には、赤穂から吉良へ技術導入がされた時期もあったとか。
 また、三河の八丁味噌には、吉良の塩が用いられていました。

2016年12月22日木曜日

弁護士らしい話し(其の24)

「とかくお金というものは・・・」

 1214日の新聞朝刊に、「簡宿で死亡 遺品2千万円」「西成 住人男性 身内現れなければ国庫に」(朝日)、「簡宿で男性死亡」「室内から2000万円」「西成 数年前から寝泊り」(産経)と報じられていました。これは、1130日の官報に掲載された「行旅死亡人」公告を受けての報道です。

 明治32(1899)年の法律(第93号)に「行旅病人及(び)行旅死亡人取扱法」というものがあります。
 古い(?)表現では、「行き倒れ」の人達について、どのように扱うかという法律です。
 この法律の1条2項に「住所、居所若(しく)は氏名知れず且(つ)引取者なき死亡人は行旅死亡人と看做す」と規定しています。
 2条は、「市町村これを救護すべし」としています。
 そして、救護費用は、被救護者の負担とし、これが弁償されないときは、扶養義務者の負担とする、とし、費用の弁償に関しては、民法878条(扶養の順位)の規定も定めています。
 9条は、官報に拠る公告を定め、1014条に定めるところからは、相続人との間で前述の費用弁償なり、遺品たる遺留品なりの処理を果すことになっているようです。

 かくて、最終的に身元が分からず、相続人の存在が明らかにならなかったときは(民法951条は、「相続人のあることが明らかでないときは・・・」と規定)、相続財産法人となり、管理人が選ばれ、特別縁故者にも引き継がれなかったものは(身元不明であれば、特別縁故者も無しとされるであろう)、最終「国庫へ帰属(民法959条)」することになります。
 当の本人は、6年以上前から毎月2万4千円の宿代を払っていたとのこと。

 ところで、私の関心は、金を残して勿体無いということではなく、日本人のメンタリティ、並べて見られる通弊として金を上手に遣えない、ということにあります。

 贅沢は敵!「・・・したつもりで『つもり貯金』」・・・ともかく金が貯ることは善で、出て行くことは悪・・・本当にそうであろうか?答えは、否!金は回らなければならぬのであります。
 質素倹約は、善!贅沢蕩尽は悪!と言っていると、金を支出するときには、後ろめたさが付き纏い、金を節約し、貯め込むことに喜びを感じるようなメンタリティ、思考回路が出来上がって仕舞う様。
 これが続くと、年金等の収入も節約し、貯め込み、自らの為には遣えず、特殊詐欺、つまり、孫子(まごこ)からのオレオレ詐欺、つまり「助けて呉れろ!」と持ち掛けられると、コロリッと・・・いうように思われてなりません。

2016年10月13日木曜日

弁護士らしくない話し(其の17)

記念館を3ツ訪れて
 夏休みに、東北を旅しました。
 いわゆる秘湯を訪れましたが、併せて、次の三人の東北人の記念館に足を運び、改めてその足跡に触れてみました。
 

   原 敬(18561921)
   「平民宰相」大正7(1918)年に最初の安定的な政党内閣を組織。

   野村胡堂(18821963)
   「銭形平次捕物控」の作家、レコード評論家でもある。

   後藤新平(18571929)
    渾名は「大風呂敷」。逓相、内相、外相、東京市長。

 これら三人の記念館は、岩手県の盛岡市から、紫波市(旧紫波町)、そして、奥州市(旧水沢市外)と北から南へ60㎞余り間に夫々建っています。

 長州閥の超然内閣の、寺内正毅官僚内閣(191618)の外相を務めた後藤新平と、この直後の政党内閣を組織した原 敬が同じ岩手県人であり、また、「銭形平次捕物控」のシリーズの大衆作家が、洋楽レコードの権威であり、その普及に多大の貢献をしたというのが面白いところです。

 その記念館の所在等は、次の通り。

   原敬記念館(http://www.mfca.jp/harakei/)
    盛岡市本宮四丁目3825

   野村胡堂・あらえびす記念館(http://kodo-araebisu.jp/)
    岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1

   後藤新平記念館(http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/)
    岩手県奥州市水沢区大手町4-1

弁護士らしい話し(其の23)


島の司法サービス(其の2)

 与論島における司法サービスの実際について説明をします。
 訴訟等の管轄については、次のようになります。
 簡易裁判所と家庭裁判所のケースは、徳之島簡易裁判所或は鹿児島家庭裁判所名瀬支部徳之島出張所(何れも、徳之島)の管轄。
 地方裁判所のケースは、鹿児島地方裁判所名瀬支部(奄美大島)の管轄。

 与論島から徳之島へ出向くには、船か、飛行機かを利用することになりますが、そのスケジュールは、以下の通りです。
 船で出向く場合、海運会社「マルエーフェリー」から出ている「フェリーあけぼの」「フェリー波之上」か、また、同じく海運会社「マリックスライン」から出ている「クイーンコーラルプラス」「クイーンコーラル8」を利用することになります。
 2ツの海運会社で上記の各2艘が就航しており、両社が1日おき(交互)に、本部港(沖縄)を出発し、最終港の鹿児島新港(鹿児島)に到着する上り便、その逆の下り便を1日1便運航しています。
 具体的には、(上り便で)与論港(与論島)を1210分に出発し、亀徳港(徳之島)に1635分に到着、また、(逆に下り便で)亀徳港を9時40分に出発し、与論港に1340分に到着します。

 飛行機で出向く場合、与論空港(与論島)から徳之島空港(徳之島)への直通便はなく、他の空港(奄美大島の奄美空港)を経由する必要があります。
 この9月を例に取ると、与論空港から徳之島空港へ向かう場合、与論空港から奄美空港までは、毎週月・水・金・日曜日の1510分発が1便出ており、奄美空港から徳之島空港までは、毎日10時発、16時5分発の2便が出ています。
 また、徳之島空港から与論空港へ向かう場合は、徳之島空港から奄美空港までは、毎日11時発と17時5分発の2便が出ており、奄美空港から与論空港へは、毎週火・木・土曜日の1310分発が1便あるだけです。

 つまり、船を利用する場合は、徳之島で宿泊することが不可避であり、前後各一泊の計二泊が必要となりそうです。また、飛行機でも、同じようなことになりそうです。
 これが司法サービスを利用しようとする場合の実際であって、甚だハードルは高いと言わざるを得ないように思われます。

弁護士らしい話し(其の22)

司法修習後40年

2016年9月4日、日曜日に、司法修習第2940周年記念大会を大阪の中之島のホテルで開催するについて、その世話役を務めました。

「司法修習」の制度は、司法省司法研修所の昭和21年8月終了と昭和22年3月終了の後、高輪第1期が昭和2212月終了、第2期が昭和23年4月終了という時代を経て、期間2年の修習が第1期~第52期、期間1年半の修習が第53期~旧第60期、期間1年の新第61(平成2012月終了)~。

我が第29期修習は、昭和50(1975)年4月~昭和52(1977)年4月。

40周年とは、修習開始からの「満」か、修習終了からの「数え」か・・・・

とにもかくにも、29期は総勢で489名で、クラス数は10

この40年間に物故した員数は、59(12.06)

40周年記念祝賀会への参加者は、211(43.14)。なお、出席に際して、介護者を要する者が、各クラスに各1名程度。

これが修習40年を閲する実態。

ところで、期間1年の態勢に入って数年で、それまで支給されて来た俸給の給費制が廃止され、俸給に等しい額の貸与制が開始され、只今は、司法修習終了後、5年経過後から、貸与された俸給分を分割返済しなければならない制度に。

これを「修習資金」の貸与と称している(裁判所法67条の2)