2015年12月15日火曜日

弁護士らしい話し(其の11)


 神戸空港に至るポートライナーには、京コンピュータ前という駅があります。
 以前、蓮舫議員の事業仕分けで評判になったコンピュータです。
 京は1016です。
 1015は千兆で、今の日本の国の借金の額です。GDPの倍であり、国家予算の10倍です。
 

 日頃、このような国の借財というものには余り関心がゆきませんが、時として、フッとこの借財、国民一人当り800万円の、その返財はどうなるのだろうか・・・と思ったりします。自分一人の分ならばマア何とかなるが・・・しかし、家人、子供、孫の分・・・と考えてゆくと、戦慄・・・というところです。

 政治家、役人、財務省の面々の仕事・・・とも思っていたのですが、デモクラシーであってみれば、その主(あるじ)たる国民がその算段をつけるべきが事理の当然のようにも思え、更に慄然・・・
 

 そこで、戦後の預金封鎖の折りのことをアレコレ調べてみました。大日本帝国憲法第8条の天皇大権の緊急勅令が頻発されていました。ならば、今日では、そのようなシナリオは無いのか・・・と安堵のような、また、手詰まりのような感想。
 

 日本の国債は、その九割方を日本国民が保有しているから、我が国は大丈夫・・・という言説もよく聞くところですが、果たして本当か・・・
 国際的に信認を失なったときに、我が国民は手の中の国債を最後の最期まで握り締めたまま、座して待つだろうか・・・
 通貨としての円が大きく下落することだけは間違いはなさそう。さすれば、輸入に頼る我が国は塗炭の苦しみか・・・
 と思いきや、円が大きく信認を失ない、下落すれば、一転、輸出なり、観光客の来訪が盛況となるから大丈夫だ・・・という楽観論もある様子。
 ともかく収支の均衡を目指すべきは冷哲な真理ではないのか、と思っていると、一転、緊縮策などというようなもので、立ち直った例など歴史上皆無である、との論。
 

「・・・」黙考ばかりの多い今回の私の記述ですが、この借財の問題は、大きくは天下国家の観点から、小さくは細かな蓄えの防衛まで、均しく皆が考えておかなければならないような気がしてなりません。

2015年11月4日水曜日

弁護士らしくない話し(其の11)


 長生きはしたくないねとジム通い

 

 昨今の洒脱にして秀逸なる川柳であります。

 体力と金と暇、この3ツが揃えば、我が世の春と、人生を謳歌・・・というところですが、この3ツの要素のうち、最も失ない易いものが、体力、つまり健康のようです。

 暇にあかせて金に物を言わせて・・・と放蕩を続けると、身体に故障を来たす・・・というのが多いパターンです。

 

 残念乍ら、このようなパターンの末に生活習慣病に至り、血液や臓器を痛め、金と暇がある筈にも拘わらず、起居動作がままにならぬ御仁も見掛けるところであります。

 人は二人分の食事を食べ続ける訳にもゆかず、1日24時間を金にあかせて36時間に引き延ばすことが出来る訳でもありません。

 難しいものは、自らの心身を律することか・・・日々をそれなりに充実せしめるべく、自身をコントロールすることか、と還暦を過ぎ不熟のまま思うこと頻りであります。

 

 長生きはしたくないねとジム通い

 

 身体を鍛えること、メンタルを丈夫にすることとの関係如何と思いつつ、そう言えば、体操という言葉に対しては、霊操という言葉があった筈。

 イグナティウス・ロヨラ(注1)というマルティン・ルター(注2)の新教の側からの宗教改革(Reformation)に対抗して、旧教の側から反動宗教改革(対抗宗教改革、カトリック改革)(CounterReformation)を唱え、その旗手となった人物の著作を一度読んで見るかと思ったりしています。

 



(注1)Ignatius de Loyola14911556
   スペインの宣教師。フランシスコ・ザビエルとともにイエズス会を組織して布教に尽くし、特に東洋への伝道に注力。
 
(注2)Martin Luther14831546
   ドイツの宗教改革者。1517年にウィッテンベルクで「95ヶ条の意見書」を発表し、改革の口火を切り、聖書をドイツ語に訳し、新教教会を確立。

2015年10月16日金曜日

弁護士らしい(?)話し(其の10)


感じる速度と思考に要する時間

 ヒトの思考は、デジタルの時代において、どこまで通用するものか、信頼し得るものか・・・

 ヒトは物を感じるには一瞬で足りるものの、物事を考えるにはそれなりの時間を要するということを昨今痛感しています。
 デジタルの時代、ネットの世界で炎上なり、罵詈雑言が瞬時に飛び交うのは、得てして、このような点に原因があるのではないでしょうか。
 感じるのは瞬時、しかし思考するには文字通り熟慮する時間を要します。問題が深刻であればある程、それに対する処し方には熟慮黙考を要する筈!?にも拘わらず、ヒトは驚愕すると合理的思考よりは感情的対応をするもののようです。考えに考え抜くと、翌日になって、或は数日して、ふーっと解決への道筋が見えて来たりします。
 このように、感じることと考えることの関係を考えています。

 そこで話しが飛ぶようですが、視覚に訴える情報の中で、文字情報と図像情報、映像情報との関係を考えたときに、何れの訴求力がどのように優るのか・・・
 報道写真には、Captionが要る、という話しがあります。
 写真を写真だけから正確に理解することは不可能であり且つ危険なことです。
 植田正治(注1)の鳥取砂丘の写真は、見事なものですが、ある意味では写真のトリッキーさを縦横に駆使しています。
 スペイン内戦のロバート・キャパ(注2)の写真、「崩れ落ちる兵士」については、近時、実は・・・という話しが説得的に語られています。
 責任ある、真っ当うなキャプションを抜きに、写真だけで物を考えることは物事をミスリードする、ということを教えています。

 が、只今の時代は、映像、視覚に訴え掛けて来るものに満ち満ちています。その一方で、そのトリッキーさも若い人達を中心に十分に認識されつつあるように思われます。
 それでも各種の報道映像は必ずしも十分なキャプションが付せられないまま洪水のように迫って来ています。
 そして、それは視覚に、感性に訴え掛けます。
 そのような渦の中で、先ずキャプションを確認し、時間を掛けて思考し、判断を下して行くことがどうしても必要な筈です。
 その為にも、時として、情報については、進んでこれを遮断し、自らの頭脳で以て考えを巡らし、考え抜いて、判断して行くことが肝要となります。





(注1)うえだしょうじ(19132000年)は、日本の写真家。鳥取砂丘を舞台にした砂丘シリーズで有名。


(注2)ロバート・キャパ(191354年)は、ハンガリー生まれの報道写真家。

   スペイン内戦、北アフリカ戦線外の戦争を取材するも、インドシナ戦争で地雷で爆死。

2015年9月29日火曜日

弁護士らしい話し(其の9)


 昨今、複数の書籍を同時併行的に読むことが多くなっています。

 未だ未だ知りたい事柄、読み解きたい話しが多いものの、どこまでの持ち時間が有るものか・・・ということかも知れません。

 

 安保法制の問題が姦しい此の頃ですが、人は、幾つかの物の見方、価値観が有るというときに、ともかく先ず選び取ったものに、とかく最後の最期まで固執するもののようであります。

 

 読んでいる本のうち二冊の中に、大倉喜八郎(注1)という人物が登場します。

 2015年2月講談社発行の瀬川拓郎著「アイヌ学入門」にては、北海道旭川の師団用地に隣接する先住民アイヌの給与地を明治24(1891)年ころに騙し取った悪徳商人として(同書283頁)。

 

 また、2015年3月祥伝社発行の中野 明著「幻の五大美術館と明治の実業家たち」の中では、大正7(1918)年に美術コレクションを一般に公開する美術館「大倉集古館」を作った文化の貢献者として(同書10頁)。

 

 一方で、刑事裁判、刑事弁護における弁護人の活動について、論理ではなく、事実で以て、真摯に検察官と対峙しなければ、その責めは果たされないとの新聞の最近の報道記事を読み、何を今更・・・と思いつつも、人を評価するときに、事実を如何に精確に把握することが大切か、レッテルを貼って判断停止に陥っているのではないか・・・と自らを顧みてもおります。

 

 秋の連休中に、北関東へ又々出向きました。

 益子を訪れ、濱田庄司(注2)旧居の建物を移した先の「益子陶芸美術館」に入りました。

 

 前回春に、「濱田庄司記念益子参考館」を訪ねたところ、ビデオ映像や、南西諸島の骨蔵器が屋外に無雑作に放置(?)されているのを見て、好感が持てなかったのですが、改めて故人の事績と冷静に向き合うことが肝要と心を新たにしました。

 

 もっとも、以前から、河井寛次郎(注3)を第一と考えていることからの、眇であったのかも知れませんが。



(注1) 実業家。越後新発田生れ。幕末維新期、武器商として成功。大倉組を起して輸出入業・土木鉱山業を創め、大倉財閥の基礎を確立。また、大倉商業学校(現、東京経済大学)を創立。(18371928
(注2) 陶芸家・民芸運動家。名は象二。神奈川県生れ。栃木県益子で制作、民芸品としての益子焼に高い芸術性を与えた。文化勲章。(18941978
(注3) 陶芸家。島根県生れ。民芸運動に参加。辰砂など釉の技法に優れ、陶板・陶彫など独創的造形を試みる。(18901966
 
  以上、何れも「広辞苑」の記述に拠る。

2015年9月14日月曜日

弁護士らしい話し(其の8)


 入浴、排泄、食事という3ツのキーワードから何が頭に浮かびますか?

 入浴、食事と来れば、温泉旅行か・・・というのが世間一般のイメージであった筈です。

 が、今日、これに排泄が加わると、これは高齢者のケアの問題です。

 

 老人福祉法という昭和38(1963)年成立の法律があります。今日まで何度も改正されて来ています。

 その第2条は、「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする」と規定しています。

 が、世上姦しいのは、高齢者破産、悲惨な老後です。

 他方で、高齢者が若者の仕事を奪っているのではないか、高齢者は若者に場を譲るべきではないのか、という声もよく聞かれます。

 

 老人福祉法に対して、「青年」福祉法はないのか?

 社会福祉法(昭和26年法第45号)は社会福祉事業、地域福祉事業を謳っており、生活保護法、児童福祉法、老人福祉法、障害者支援法等に基づく事業を規律しています。

 結局のところ、児童福祉法はともかく、「青年」福祉法は無く、従来からの我が国の文化、人々の行動様式の中で、ある意味では、より厳しく、余裕の無い環境下で揉みくちゃにされ、ある意味使い捨てにされているのが今どきの若者ではないのか・・・と同情的に眺め始めています。

 

 老人の繰り言めいていますが、ネット情報、ネット環境の整備は、本当によりよい生活を齎したのでしょうか。

 圧倒的な量の、要らざる情報を撒き散らし、自身の幸せ度を引き下げただけではないのでしょうか。

 Amish アーミッシュのような生き方に学ぶべきではないでしょうか。

2015年9月1日火曜日

弁護士らしい話し(其の7)

 有斐閣という法律関係書籍の老舗の出版社があります。

 法律家なれば、必ず御世話になっているところです。

 同社の六法全書を開いていて、初めて気が付いたことがあります。迂闊に過ぎ、自ら呆れているところですが、各編の冒頭に箴言が掲げられているのです。

  憲法編には、「アメリカ独立宣言」「われわれは、次の真理を自明なものと考える。すなわち、すべての人間は、平等に造られている。・・・」
 
 地方自治法編では、「シャウプ勧告」から「地方自治のためにそれぞれの事務は、適当な最低段階の行政機関に与えられるであろう・・・」

 財政・租税法編には、福沢諭吉の「凡そ世の中に割合よき商売ありと雖も、運上を払うて政府の保護を買うほど安きものはなかるべし。・・・」

 警察・防衛法編には、モンテスキューの「経験がつねに教えるところによれば、権力をもつ者はそれを濫用しがちで、限界にぶつかるまでやる。まことに、徳性そのものすら限界を必要とする」

 刑法編では、「天落つるとも、正義は行わるべし」

 民法編では、「社会あるところ法あり」

 商法編では、「最悪の民法典は、疑いもなく、どこの国民にも無差別に適用される民法典であり、最悪の海法典は、一国だけの特別な利益と習俗の特殊的影響にのみ基づいて作られる海法典である」

 民事訴訟法編では、「他方の側もまた聴かれるべきである」

 国際私法編では、「法の条理は法の精神」

 社会保障・厚生法編では、大内兵衛が会長を務めた昭和25年の社会保障制度に関する勧告「序説」

 経済法編では、ユスティニアヌスの「正義は各人に彼の権利を与える堅固な不断の意思である」

 事業関連法編では、アダム・スミスの「諸国民の富」から

 知的財産法編では、コーラーの「作者の努力の結晶である作品の運命は、作者の人格と不可分の関係にある。これはまさに正義の要求するところと考えなければならない」との言。

 改めて読み返すと、真に意味深長であって、今も変わらぬ人間の真理を鋭く衝いている!と今更乍らに痛感します。

弁護士らしくない話し(其の10)


 十勝へ行ってきました。
 
 日高山脈の東、帯広に泊って、南は、襟裳岬、北は、狩勝峠を訪ねてきました。
 松山千春も、鈴木宗男も、足寄の人でした。
 一世を風靡したJR広尾線の廃線跡の、愛国、幸福の各駅の名残りは、今も沢山の人がやって来ていました。
 
 8月の盆の頃合は、祭りが盛大で、題して「平原まつり」。
 北海盆唄が盛大に流れていました。
 
 真に広闊な一帯で、農業、酪農の大地でありました。
 
 坂本直行(190682)という画家がいます。
 六花亭の花柄包装紙の花の絵が有名ですが、1959(昭和34)年に画業に専念するまでは、1936(昭和11)年から十勝支庁の広尾郡広尾町様似で開拓民として牧場を営んでいたとのこと。
 北大山岳部のOB、日本山岳会の会員でもあり、利尻岳等々も多数描いています。


弁護士らしくない話し(其の9)


 面白い本を読みました。

「帳簿の世界史」4月に文藝春秋社から刊行されたもので、著者は、米国人のジェイコブ・ソール、訳者は、「トマ・ピケティの新・資本論」や「イスラム国テロリストが国家をつくる時(ロレッタ・ナポリオーニ著)」の村井章子。

 国家を統治することと国家財政を運営することとが如何に近接しているか、しかしその両立が如何に難しいかを明らかにしています。

 

 太陽王ルイ14世は、ある時期まで国家の会計報告に強い関心を持っていたものの、後半(?)その関心を一切示さなくなったとのこと。専制君主にとって、国の会計の実情などという凡そBad Newsであって知りたくもないもののようです。

 

 この話しは、専制君主、独裁者に固有のものかと思いきや、今日、Democracyを標榜する数多の国で、勿論我が国もその例に漏れず、主権者とされている国民諸氏は、会計報告にキチンと耳を傾けていようものかどうか・・・

 対岸の火事・・・という受け取り方では・・・

2015年8月17日月曜日

弁護士らしい話し(?)(其の6)文字にこだわる

 咸臨丸と咸宜園


 文章表現の道具である文字についての話しです。

 先日、咸臨丸に乗って太平洋を渡った万延遣米使節(注)の子孫の方の御話しを聞く機会がありました。
 明治4年の岩倉遣米欧使節団の華々しさの陰に隠れているようですが、日本人が操船して太平洋を渡った壮挙です。
 一方、大分(豊後)の日田に咸宜園という江戸後期に広瀬淡窓が開き、多数の門人を輩出した私塾があります。

 咸臨丸と咸宜園とに用いられている「咸」とはどのような意味か?この「咸」が常日頃用いられているとは思われません。
 カンとしか読めない文字で、その意味は、皆。つまり、全員とか、全てとか。
 つまり、咸臨は、全員で事に臨む、当たる、という意味。一方、咸宜とは、万事宜しい、All Goodということのよう。

 改めて漢字の多彩さを痛感。

 1840年の阿片戦争から1945年の先の大戦までの百年余りの間の、隣国の凋落時期を思わず知らず物を見る基礎に置いているような人が多いように思われますが、私達は、日々使う文字をこの隣国伝来のモノに頼っています。
 私達の使用している文字は、英語で表記すると、Chinese Characterとなります。



(注)万延元(1860)年の遣米使節は、安政5(1858)年に締結した日米修好通商条約(日本国米利堅合衆国修好通商条約。日米和親条約は、1854年)の批准書交換を目的として派遣されたもので、その正使は、新見豊前守正興で、その一行は、米軍艦のポーハタン(Powhatan、これは米先住民の族名。嘉永7(1854)年のペリー再訪時のうちの一隻)に乗って行きました。
  これに加えて、別艦として派遣されたのが、咸臨丸で、木村摂津守喜毅、勝 麟太郎以下90余名が乗っていました。が、その操船は、米海軍士官ブルック大尉外10名に負っていました。
  なお、咸臨丸は、幕府の発注でオランダのキンデルダイクで1856年に建造、進水し、翌57年に日本で引き渡された3本マストの木造スクリュー艦で、2012年まで大阪市が所有していたスクーナー型の帆船「あこがれ」と同じ大きさだったそうです。
  そして、咸臨丸の最期は、187111月(新暦)に北海道の木古内の近くで座礁し、沈没。

2015年7月24日金曜日

弁護士らしい話(其の5)(言葉にこだわる)

思い違い、飜訳違い(?)についての随想・徒然です。

 司馬遼太郎の「街道を行く」の中に、文字についての誤解を戒める記述があります。崇と祟との違いを述べています。見掛けは紛らわしいが、意味は大違い。
 キリスト教の聖書が飜訳された際に、ノアの箱舟の話しで、陸地から鳩が木の枝を持ち帰ったものは、橄欖の枝と訳されました。これは原語では、オリーブでした。往時の日本人には、オリーブは未見であったようで、九州南部に渡来していた橄欖をこれに当てたようです。

 ところで、オリーブと言えば、最近では、マラソンの優勝者に与えられる冠は、オリーブの枝を編んだものになっています。以前は、月桂樹の枝の月桂冠であったようですが、月桂冠は、文芸の神のアポロンの持物attributeであって、肉体を使った競技の勝者には、ゼウスの持物のオリーブ冠に修正されたとか。因に、ギリシャのアテネは、オリーブの産地として繁栄しました。
 また、英語では、Laurel CrownOlive Crownと言い分けられ、前者に関しては、A Poet Laureate 桂冠詩人という言葉もあります。

 更に、誤訳と言えば、新約聖書の中にも、ナツメヤシ(Date Palm)を棕櫚(Palm)と誤ったものもあるようです。植物としては、Palm ヤシとは、ヤシ科に属する高木の総称。我が国のシュロ(棕櫚)は、分布の北限にあたるそうです。また、外観上からは、fan palm 掌状の葉をもつものと、羽状の葉 feather palm とに分けられ、棗椰子(date palm)は、作物であり、羽状葉が特徴のようです。

 棕櫚の主日(しゅろのしゅじつ)とか、受難の主日(枝の主日)とかの言葉がありますが(前者は、プロテスタント、後者は、カトリック)、キリストがエルサレムに入城する際に、歓迎する群集がナツメヤシの枝(正確には葉)を進む道に敷き詰めたという話しがあります。

 が、棕櫚とナツメヤシの誤解・誤訳のようです。

2015年7月21日火曜日

弁護士らしくない話し(其の8)

長崎街道について
 豊前・小倉の常盤橋(後代には、門司の大里)から、肥前・長崎に至る脇街道(「五街道」に次ぐとか)であって、25宿、57里(約224㎞)。
 九州の諸大名の参勤交代や長崎奉行・西国筋郡代の往来、オランダ商館長の参府の経路。

 常盤橋の起点から筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と言われ、精確には、豊前街道(福岡県北九州市)、筑前街道(飯塚市)、肥前街道(佐賀県筑紫野市)と分けられるものの、「黒崎」「木屋瀬(こやのせ)」「飯塚」「内野」「山家(やまえ)」「原田(はるだ)」の6ツの宿場があったのですが、この木屋瀬宿、飯塚宿、内野宿を六月下旬に訪れました。
 筑豊電鉄木屋瀬駅からは徒歩5分、JR筑前植木駅からは20分。小倉からは車で小一時間。

 木屋瀬宿は、字義の通り、遠賀川を利用して、上流の日田から下流の小倉へ木材を運ぶ要衝として栄え、明治になっては、筑豊炭田の石炭運搬でも繁華であったようです。
 内野宿は、真っ直ぐ西へ山越えをすると太宰府に至る位置にありますが、南西へ長崎街道を辿ると、面白い表現ですが、九州の箱根、道が険しいという譬えでしょう、冷水峠に至り、これを越えると、筑前・筑後、豊前の三国の境に至り、筑紫野市の平野に至ります。
 これら長崎街道沿いに宿場を今一度盛り立てようとしている人達は、何れもリタイア世代、年金世代であって、千葉から、東京から戻ったという人達でしたが、その次の世代は、その故郷は東京近郊ということになるから、顧みられないであろうと述べられていたのが、印象的でした。

 この長崎街道は、竜馬も、シーボルトも、ケンペルも辿ったところであり、是非完歩を目指し度いと思っています。


 ところで、実は、小倉の街中に宿泊したのですが、その隣りに、「無法松の碑」が立てられており、改めて「小倉生まれで玄海育ち・・・」という歌詞が腑に落ちました。