2018年4月4日水曜日

弁護士らしくない話し(其の25)


今生きている時代というもの

 時代というのは、それを現に生きている、そのときには、よく分からないものです。
 今生きている時代というものの意味、その位置付けは、大部時が過ぎてからしか分からないものであることが一般のようです。

 しかし、佳き著作を読んでいると、只今生きている時代とは、こういうものであるのか・・・と気付かせて呉れることがあったりします。
 トランプなどという人物が大統領になるなどということは、凡そ合理的には予想出来ないところであったように思われますが、それでも人類の歴史の中では、これはこれで決してあり得ない話しではなかったようです。

 塩野七生は、ヴェニスの歴史を著して世に出た人ですが、その後、中世ヨーロッパを書き、ローマ人を書き、遡ってギリシャ人を描いて、アレキサンダー大王を以て、大部の小説については、以後擱筆しました。
 今年1月に、ギリシャ人の歴史の第3巻を書き上げました。これは、アレクサンダーの物語です。この前は、1年強前の2016年に、いわゆる衆愚政治の時代を描いています。アルキビアデスの時代です。民主政、その華かなりし頃合(BC460ころ)から、その後、半世紀が経つや経たないで、一挙にギリシャ人が劣化したのか、揃って愚劣になったのか・・・
 依然ギリシャ人はギリシャ人であって変わってはいない筈。では何が・・・ということを考えさせて呉れます。

 その延長線上で、中公新書の新刊で面白い本を見付けました。「戦前日本のポピュリズム」筒井清忠著・2018年1月刊です。
 1905年の日比谷焼き打ち事件を日本の戦前のポピュリズムの嚆矢として、その後、日中戦争、日米戦争へ至る道程を説いています。
 朴烈怪写真事件というような、それなりに知られてはいるものの、その意味合いは、そのとき生きていた人達にしかよく分からないような事件も有れば、その後の大戦への道筋を付けたと言われる統帥権干犯問題なるものも、詳しく紹介され、その位置付けが行なわれています。
 治安維持法とセットで成立した普通選挙が大衆デモクラシーの時代を拓き、政党政治の混乱、混迷を招き、そして、破局・・・

 ポピュリズムとデモクラシーの関係が興味深いです。
 アメリカ独立革命とフランス革命の標語は、代表無ければ課税無し!でした。
 階層というマスの人の集団と代表ということがテーマでした。が、今日、階層というような塊りで人を捉えることは難しいです。人の集まりは様々に分裂し、また、様々な場面で複合的に、複数の集まりに重層的に帰属し、或は帰属しなかったりします。大国アメリカの大統領の言説は、ツィッターで恰かも個人対個人の言説のようにして流されます。大衆は、摑み切れない砂粒のようになる一方で、ITが個々人を適切に掬い上げているかの如き誤解が罷り通っているように思われてなりません。