2022年6月15日水曜日


島の話し

      -日本の島を訪ねる-
 

(はじめに)

 1965(昭和41)年に設立された公益財団法人日本離島センターが発行している書籍に、「SHIMADAS(シマダス)」があります。1743頁という大部です。北海道から沖縄県まで全国1750の島〻が掲載されています。

 我が国は、大八洲(おおやしま)と称し、大八洲国、大八島国とされている際の、八ツの島は、本州、四国、九州。以下については、諸説が有って、隠岐、佐渡、淡路、壱岐、対馬か・・・

 扨、そもそも私は山ヤです。Mountaineerであります。 今日では昔話しの世界ですが、1969(昭和44)年1月のT大入試中止ということが無ければ、某大学の学士山岳会の会員となって、山ヤの本懐を遂げており、弁護士にはなっていなかったではなかろうか、と時折想像することがあります。

 そのような私が何故に島の話しを・・・

 深田久弥なる作家が著した「日本百名山」なる随筆は、1964(昭和39)年7月に出版され、この百名山にチャレンジする人達が澎湃・・・

 私も会員の公益社団法人日本山岳会が1978年に百名山に200座を加えて、日本三百名山を選び、その後、更に、1984年に、これを絞り込んで日本二百名山としたという話しがあります。

 明大の山スキー部出身の田中陽希という若い衆(1983年生)の、BS-NHKの番組「グレートトラバース」と題する山旅映像が有名ですが、これは、先ず、百名山→二百名山→三百名山と上り継いだ話しです。その始まりは、2014年に鹿児島県屋久島の宮之浦岳から北海道利尻島利尻岳までの百座を、次は、2015年に、北海道の宗谷岬から鹿児島県の佐多岬まで二百名山の百座を、そして、2018年1月には、初回同様に宮之浦岳から始めて301座に登ったという御話し。陸は全て歩行、海はシーカヤックで渡ったようです。因に、300名山が301と字余りとなったのは、新潟県の荒沢岳が加わっているからとの由。

 

(以下、本題)

 長い前置きでしたが、漸く話しは本題へ。

 山ヤであった筈の私は、その後も時として山に登り、百名山の伝で言うならば、南は鹿児島県屋久島の宮之浦岳、北は北海道利尻島の利尻岳etc.と登って来ました。

 が、1995(平成7)年1月、阪神淡路大震災にて自宅は全壊・・・かくて、少〻の避難生活。そこで、思い付いたのは、山ヤを続けるには、道具がソコソコ要るが、ランニングなれば、要るものは極く僅か・・・其処で日本各地、アメリカ西海岸まで走りに行くことに。

 その中で出会ったものに、有志弁護士による離島への押し掛け法律相談。2011(平成23)年5月の与論島での「離島相談」。これに参加させて貰ったところ、無弁地域であり、簡易裁判所も家裁出張所も無い与論島では、毎年3月にマラソン大会が開催されるとのこと。そこで、翌2012(平成24)年から2016(平成28)年まで5回連続して、マラソン&無料法律相談に出張ることに。

 かくて、山ヤ、マラソンマンの果てとして、私的には、その後のマイブームであるのが「島旅」なのです。

 真に長い話しのマクラ。(極く最近、春風亭一之輔の「いちのすけのまくら」(2022年4月、朝日新聞出版)を読んで、早速に感化され)

 屋久島の宮之浦岳、利尻島の利尻岳から始まり、佐渡の金北山、石垣島、西表島、奄美大島、大分県国東半島の沖の姫島、小笠原父島・母島、家島三島、加計呂麻島、島原上島・下島・・・

 

(島、離島というもの)

 先ず、島の定義から始めると、「広辞苑」に拠れば、「周囲が水によって囲まれた小陸地」との由。更に、「成因上から火山島・珊瑚島・陸島などに分類。」

 前二者は分かるような気がするので、陸島を更に引くと、「大陸島に同じ」とあるので、これに当たると、「大陸の一部が断層・海食などにより大陸から分離され、または大陸付近の水底が隆起して生じた島。大ブリテン島の類。陸島。分離島。」。対するに、「大洋島」「大洋中にある島。大陸と関係がない。火山島・珊瑚島など」と。

 小笠原諸島は、大洋島で我が国でも珍しいとのこと。すなわち、日本の殆どは、大陸島、陸島ということ。

 次に、「離島」という言葉を引くと、「陸地から遠く海中に離れてある島。はなれじま。」との由。

 この場合、「遠く」という表現がされているところが少〻情緒的ではあるも、昨今の橋が掛けられた島〻がこれに当たらないことは間違いないであろうところ。

 前述の「SHIMADAS」は、全国1750の島〻の総合案内書を謳っているところ。

 一方、「島の名前 日本編」という海洋写真家 中村庸夫(1949~)が出版した写真集には、北方領土・択捉島から始まって、尖閣諸島まで各言及しているものの前者は遠い島影の写真、後者は、写真は無し。結局、国の果て、国境の付近では色んな難しさが絡んで来る模様。南の方の写真は、与那国島まで。

 そして、「原色 日本島図鑑」新星出版社、2011年3月発行、加藤庸二著、全383頁は、「日本の島433 有人島全収録」と謳い、ともかく北方4島、竹島、尖閣諸島にもコメントしています。とまれ、この書を信頼すれば、日本の有人島は全部で433ということになります。

 かくて漸う私が現に訪ねた島の話しに入ります。

 物心がついた頃から今まで神戸に住んでいることから、島と言えば、淡路島。高校生で、四国九州へ。大学生で、壱岐へ。また、淡路島の南の沼島、天浮橋の上からイザナギとイザナミの持つ天の沼矛の先から落ちた滴の固まりとの沼島(2.73㎢)へも。

 そして、百名山に出掛けるべし、と利尻島の利尻岳、屋久島の宮之浦岳、佐渡島の金木山。震災で仮住まい中に、俄かに、南の島へ行こうと思い至り、石垣島西表島へ。一方で、市民ランナー、マラソンを始め、ハワイへ3度。また、台湾の玉山(日本名「新高山 ニイタカヤマ」)へ登り、那覇マラソンと、しまなみ海道100㎞ランは、各4度走り、前述の2011年5月の大川哲二弁護士主唱の離島法律相談に参加し、沖縄返還(1972年)前は日本の最南端であった与論島の現在を実地に体感。同地の歴史では、米軍統治時代には、裁判所が有ったとの情報(依然調査中ですが、裁判所にもその頃の記録は残されてはいない、との回答)。なお、しまなみ海道は、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、(越智)大島を経由。

 ところで、2011年に、早晩与論島では、法務局の出張所も廃止に至るとの話し。真に痛切な離島の法的サービス、法治の危うさを知り、毎年春3月には、島周囲のマラソン大会が開催されると知り、翌2012年3月から大会の前日と後日に無料法律相談を実施することに。

 この企画は、2012年から2016年までの計5回、島一周のハーフマラソンの前後の日に、町の協力を得て、開催出来ました。2013年から、奄美大島の公設事務所に居た鈴木穂人弁護士も参加して呉れ、また、2016年には、伜の南川克博弁護士も福岡から参加し、ラン&法律相談をすることが出来ました。この国は、法の支配の行き届かぬところが未だ未だ多いようです。


(塩飽本島)

 201210は、岡山県の笠岡市からその沖合の、白石島真鍋島を経て、香川県丸亀市に属する(塩飽(しわく))本島へ日帰りで。

 塩飽と言えば、織豊期以降、御用水主(かこ)を勤め、650人の水主は、大名、小名ならぬ人名(にんみょう)と呼ばれ、この本島には、史跡塩飽勤番所跡が有り、歴史の香りのするところ。


(奄美大島、加計呂麻島)

 与論島で知り合った鈴木弁護士は、折柄、奄美大島の公設事務所に居たことから、2013年から奄美大島を訪ねるようになり、喜界島にも立ち寄り、その翌2014年からは、その隣りの島の加計呂麻島のマラソンにも連続して参加するようになりました。

 奄美大島と加計呂麻島との間の海峡は、大島海峡と言いますが、1945年に戦艦大和が沖縄へ特攻出撃する際に、最後の休養を摂ったところ、また、加計呂麻島は、「震洋」なるベニヤ板を張った船で特攻作戦なるものが展開されるべく、戦後に作家となった島尾敏雄が隊長を務めていた基地があったところです。

 なお、加計呂麻島は、作家・漫才師の又吉直樹氏の母堂の出身地との由。

 また、加計呂麻島の諸鈍の浜は、赤いデイゴの花が名物ですが、フーテンの寅「男はつらいよ」第48(199512月公開)「寅次郎紅の花」の舞台、ロケ地となったことでも有名です。

 この作品は、寅さんがその後震災後の神戸市長田区を見舞うという展開でした。


(与那国島)

 2015年2月には、与那国島へ渡りました。

 大阪→那覇→与那国島のフライトです。与那国島の現地表現は、「どなん」とのこと。「渡難」と書くとのこと。文字通り、渡るのは難しい島との由。沖縄本島から500km、一方、台湾までは、111km。我が国の最西端。終戦直後は、台湾等との密貿易で繁昌し、一時は人口1万2千人に及んだものの、近時は、1千5百人を割っていたところが、2017年には、中国を念頭に置いた防衛力云〻の話しから、レーダー基地が設けられ、陸上自衛隊員とその家族を合わせて、250人程が転入し、1千7百人余に増加したとのこと。与那国蚕(ヨナグニサン)は、日本最大の蛾であって、東宝映画「モスラ」のモデルであったとか。

 この島では、公共交通機関は、所謂コミュニティーバスのみ。4日間の滞在で略隅から隅まで。

 与那国島は、1946(昭和21)年から51(昭和26)年までの5年間、「ケーキ(景気)時代」と呼ばれ、こぞっと密貿易に関わったとの話しが有り、フリージャーナリストの奥野修司(1948~)が「ナツコ 沖縄密貿易の女王」という大宅壮一ノンフィクション賞の作品で、金城夏子(191554)について詳しく述べています。その最盛期、与那国島の人口は、2万人を超えていたが、今は、その10分の1以下とも。

 また、後述の有吉佐和子は、この書の中で、この島の方言では、他島のY音がD音に転じている例があるので、ドナンはユナンに等しいと述べています。そして、ユウナ(学名オオハマボー)に言及。この花に因んだ孫娘の名前と同じ。


閑話休題

 和歌山県出身の作家・有吉佐和子(193184)は、「紀ノ川」「華岡青洲の妻」の外に、「恍惚の人」「複合汚染」などの社会問題を扱った作品を残しています。

 その有吉は、1980年に、実地に島を訪ねて、なかなか読ませる一連のルポルタージュを残しています。題して「日本の島々、昔と今。」。岩波文庫で全512頁。

 今改めて読み返すと、その時代の問題を適確に指摘し、今もなお考えることを果断に要求しているようです。

 北は、北海道の焼尻島・天売島、南は、小笠原の父島、西は、与那国島を訪れ、加えて、竹島・択捉・国後はともかく、尖閣列島へも渡ろうか、と試みる(勿論、果たせてはいないが)、大ルポルタージュです。元〻、集英社の月刊文芸誌「すばる」に連載された一連のルポで、具体的な記述を追うと、1979(昭和54)年、1980(昭和55)年の体験等が記されたもののよう。

 只今は、岩波文庫(緑帯)で2009(平成21)年に刊行されており、真に割り切りが良いと言うか、頭の回転が速いというか、少〻異論は有るものの、戦後30年を経た頃合の、日本の島〻での体験が雄弁に、歯に衣着せず語られています。

 大いに共感し得るところも、それは如何なものか・・・と首を傾げるところもありました。が、中でもこれは多分事実であって、私が一方的に誤解していた、不勉強であったところとして、1541(天文10)年7月に種子島に漂着したポルトガル船、ポルトガル人が火縄銃を伝えた・・・との話し、これは、ポルトガル船に非ずして、中国、当時は明の安徽省出身の商人王直、字は五峰の船であって、マカオを出港した後に、海賊に襲われ、また、大暴風雨に遭って、種子島へ漂着との由。マカオで雇い入れた船員の1人にポルトガル人がいて、雇主の王直の方が通訳を装ったことから、ポルトガル船の難破と誤解せしめた、との由。

 その頃には、ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)には、ポルトガルの商館があったという前提で、ポルトガル船の難破と思い込んでいたところ、これは雇主の王直が巧妙に立ち回った結果とのこと。

 改めて裏を取る必要が有るように思うものの、当時、明国の貿易商人王直が五島列島の福江に天文9(1540)年に現れたという記録が有るとのことであって、それなりに信憑性の高い話し。

 どうして、バタヴィアからポルトガル人が日本まで・・・との予てよりの長年の疑問は疑問として正しかった・・・と独り納得。

 この点につき、なお、山川出版社の日本史広辞典にて、「王直」の項に当たると、これを支持する記述がされています。

 なお、余談次いで乍ら、イベリア半島の付け根のナバラ王国(現スペイン)出身のザビエルの来航は、1549(天文18)年7月のことであり、離日は、翌〻年とのこと。

 長崎より前の出島が平戸に設けられたのは、1636(寛永13)年。

 其処から、ポルトガル人が追放されたのは、1639(寛永16)年のこと。

 遙けき昔であって、ポルトガル人云〻との話しになると、この辺りの機序は往〻錯覚に陥るところ。これらは、鉄炮記(慶長11(1606)年撰述)の記述を丹念に読めば分かることらしい・・・


(隠岐)

 2015年6月には、空路、隠岐へ。隠岐は、旧国名にもなっているところ乍ら、隠岐島なる島はなく、本土寄りの知夫里島、西ノ島、中ノ島の3ツを纏めて「島前(どうぜん)」と呼び、「島後(どうご)」が最大の島。

 承久の乱(1221)に敗れた後鳥羽上皇が流され、そして、17年程生きたというのは、島前の中ノ島、一方、その後、百年余の建武年間の前の元弘2(1332)年、後醍醐天皇が流され、脱出し、都へ戻ったのは、島後。大阪からは、空路僅かに50分。


(小笠原諸島)

 2016年3月には、いよいよ小笠原諸島の父島へ。竹芝桟橋を昼に出た「おがさわら丸」は、翌日昼過ぎに25時間余を要して、父島に到着。東京から南へ1000km

 この船中、右手遥かに夕暮れの八丈島を望んでから、残り700kmは何も無し。否、孀婦岩という伊豆諸島の最南端に位置する、真に印象深い海面から99m屹立している真にインパクトのあるLand-Markがありました。

 その位置は、鳥島の南76kmと言われており、その鳥島は、都庁から582kmと言われているので、結局658km

 この折りの「おがさわら丸」は、所要25時間余りで、1000kmということですから、時速40km。従って、八丈島付近では、竹芝を出て、7~8時間が経過、この孀婦岩辺りでは、16時間経っている状況。何れも夜闇の中での望見ながら、海面は波が光を反射して、朧ろながらも、その形は見た!と今も信じているところ・・・

 小笠原諸島は、大洋島です。大陸の一部になったことはありません。従って、その生物相は、真に独特なものです。が、人が流れ着いて住み始めてから、その固有さは、次〻と崩れて行きました。自然にとって、真に人、人間というものは、迷惑至極のモノのようです。父島の南端から西1㎞にある無人島の南島(0.34㎢)では、絶滅したというカタツムリ(学名:ヒロベソカタマイマイ)の半化石した殻で一面埋め尽くされた浜辺・・・嘆息・・・

 ところで、「ボニンブルー」という言葉があります。伊豆諸島の南部・八丈島辺りも、江戸時代に「無人島」「ぶにんじま」と呼ばれており、「ブニン」→「ボニン」と転訛したとの説が有力のようです。

 ランダムハウス英和辞典には、Bonin islandsで検索すると、the Bonin Islands、小笠原諸島、ボニン諸島:面積104㎢。〔無人(ぶにん)より〕と掲載されています。

 近時は、小笠原の青い海をBonin blueと表現しています。

 私の乗った旧おがさわら丸は、東京─父島を25時間半で結んでいました。これが新造の只今のおがさわら丸では、24時間となったとのこと。僅か1時間半の短縮で、何が新造船か!?・・・と思われるでしょうが、これには小笠原諸島なりの理由が有るところ。

 つまり、小笠原の生活は、父島(23.45㎢)と竹芝桟橋との往来について、先ず、片道丸1日を要する、ということを前提に、到着後は父島では3日、竹芝では1日の停泊。

 この間、南へ約50㎞の母島(19.88㎢)で1泊。最南峰の乳房山(標高463m)による。これら6日ワンセットを原則として、生活が営まれているような印象。

 父島での港の出入り、特に東京への戻りの出港に際して、島の人〻がてんでに船で伴走・併走して港の外まで派手派手しい見送りをして呉れたのが、真に印象的でした。

 ところで、小笠原村は、父島には、2千人余、母島には、4百6十人余の人が住んでいるものの、無弁地域です。法務局も有りません。裁判所も有りません。警察、消防は有りますが、難しい手術を要する急病人などは、南の果ての硫黄島から自衛隊のヘリを飛ばせて、東京まで急送するとのこと。

 なお、小笠原には、東京都小笠原支庁が置かれています。が、○○郡なる表記は有りません。(小笠原諸島は、北から南へ聟島列島、父島列島、母島列島、南北2ツの硫黄島(イオトー)から成る火山列島から成っていますが、これら全てが小笠原村です。なお、鹿児島県にあるのは、イオウジマです。その別名は、「鬼界島」。)

 この点、後に紹介する八丈島も、東京都八丈島(東京都八丈支庁がある)です。


(家島三島)

 2016年7月には、播磨灘、姫路の沖合の家島諸島の家島・坊勢島・男鹿島を駆け足で。これは京阪神から日帰り可の島旅。

 2017は、オーストラリアのウルル(旧称エアーズロック)に駆け足で登り、越中の雪の毛勝山に登り、11月には、恒例の加計呂麻島のRun2018は、島原の最早島巡りとは言い難いレインボーブリッジを経ての、天草上島&下島へ。2019には、奄美大島と与論島の間の徳之島へ。なおも、沖永良部島は、未踏。2020年4月には、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言。近場の山登りに専念。


(八丈島)

 昨年202110には、八丈島へ。小笠原へは、行き帰り船で各1日を要すことは紹介済み。八丈島は、伊豆七島の南端に位置します。東京都八丈町です。

 東京から南へ300㎞。面積69㎢、周囲51㎞、人口7千6百人(2016年6月)。

 竹芝桟橋から船では10時間とのことですが、伊丹→羽田→八丈と飛行機では乗り換え時間を入れても、計2時間、真に呆気ない旅でありました。

 大島、利島(としま)、新島(にいじま)、神津島(こうづじま)、三宅島、御蔵島、そして八丈島が伊豆七島!?然るに、名称は、伊豆七島。

 その由来は、江戸時代には、伊豆奉行の管轄にあったからとのこと。話しによれば、昔は十の島ということで、八番目が八丈島、十番目が十島→利島であったとか。

 八丈という名前は、「黄八丈」つまり、特産の絹織物に由来する模様。尤も、「本土を出て八番目に到着する島」だから、という説も有るとのこと。

 所謂コミュニティ・バスが走っているものの、人口よりも自動車登録台数の方が多い、というような話しも聞きました。ナンバープレートは、小笠原も同様ですが、「品川」です。

 島の中心には、北の八丈富士(854m)と南の三原山(701m)が聳えており、是非、八丈富士には登り度い、と思い、海抜700m程の車道の終点までタクシーを駆りましたが、其処から先については、次回を期しています。

 ところで、三原山と言えば、自殺の名所であった・・・というような朧ろの記憶を運転手に質したところ、それは、伊豆大島の三原山でしょう、と言われ、誤解していたことに気付くも、これら二ツの三原山のうち、八丈島の方が標高が90m高いことを確認して、妙に納得・・・

 八丈島の有名人は、豊太閤の五大老の最若手の宇喜多秀家(15721655)で、関ヶ原の戦(1600)に敗れて、九州へ逃げ、島津に匿われていたものの、結局、流されたという史実。生没年からすれば、278歳で大老→敗者、果ては、823歳まで長寿を保ったということ。それでも、往時は、責任というのは、個人ではなく、家が負ったということから、徳川の天下が引っ繰り返る明治まで、その子孫は流人の子孫として赦免されなかったとの由。

 ところで、宇喜多は浮田とも書き、その出身は、岡山は児島湾の干拓で有名な処。泥地を田に干拓・・・つまり、浮いた田→宇喜多。

 そう言えば、大阪にも浮田町が有り、また、埋め田→梅田も有るところ。


(対馬島)

 そして、直近は、今年2022年1月に、対馬と壱岐へ行きました。博多港からジェットフォイルで対馬の厳原へ、下対馬と上対馬をグルリッとバスで一周、帰りは、壱岐の郷ノ浦へ寄って、博多に戻りました。予てより対馬は、果たして一ツの島なのか、二ツの島から成っているのか・・・気になる辺りには、日露戦争前に対馬の中央付近を開削して、日本海から東シナ海へのショートカットの水路が設けられたものの、この水路は、実戦では功無しながらも、なおも地図を見て、対馬は一ツか、二ツから成るのか?と悩ませるばかり・・・上下一対の島の南北は地峡でつながった一ツの模様・・・

 上対馬の北端の展望台からは、夜にはプサンの街の明かりが望めるとの由。

 帰りに寄った壱岐では、大学二年生以来、半世紀を経て、その中心地の郷ノ浦に立ち寄ったものの、真に今昔の感頻りでありました。

 ところで、対馬島(つしまじま)は、全島で1市=対馬市。壱岐も同じく1市=壱岐市。面積は、696.10㎢と133.80㎢。人口は、3万5千人と3万人。

 上対馬の比田勝港は、一時釜山からの船で賑わい、対馬の総人口と同じ韓国からの旅行者が訪れたとか。これは年間の訪問客数に非ずして、瞬間の人の出の数の模様・・・

 しかし、今回訪れたときは、多分政治的理由から該国際航路は廃止の憂き目に遭い、対馬の観光業は一気に大不況に陥った有り様。

 対馬の支配者としては、「宗」氏が有名なところであり、元〻は「惟宗」姓であったものの、大陸、中国、朝鮮と交際するに際して、二文字「惟宗」よりは、一字姓の「宗」が好都合と名乗りを改めたとの話し。

 ここまでは知っていたものの、現地を訪れて知ったのは、対馬では、阿比留(あびる)の姓が多く、これが元〻対馬の支配者であったとのこと。

 因に、惟宗氏は、讃岐国香川郡を本貫とする秦氏(日本史広辞典)とされていることからすれば、何れも大陸との通路であったことの強い影響が考えられるところ。


(おわりに)

 島に行って何が楽しいか?自問自答・・・懐かしい時代が残っている、それらに出会える・・・ということが、その魅力か。

 島に橋が架けられると、島の利便性が向上するという風に言われていた時代を経て、島の人と物が地続きになった本土或は大きな陸地の方に吸い寄せられる、果ては吸い取られるというストロー現象が指摘されて久しいようです。

 我が国の有人島は、全部で433有るとのことです。

 未だ訪れた島の数は、百にも至っていませんが、更にシコシコと訪ねるべし、と考えるところです。

 そして、大八洲国の名で呼ばれていたこの国は、初めは、本州、四国、九州の3ツは動かないものの、以下は、諸説有って、隠岐、佐渡、淡路、壱岐、対馬の島を挙げるものもあるとのことの意味が改めて知られました。

 なお、島嶼と漢字で書いて、島は大きな島、嶼は小さな島を意味するとのこと。

 PolynesiaMicronesiaIndonesia nesiaは、島嶼国家を指すとの話しも有るところ。

 今後共、機会を見付け、シマに渡り度いと念願の一席でありました。(シャンシャン-お囃子-


 追而、日本最大の淡水湖・琵琶湖には、島が三ツ有ります。このうち、沖島(面積1.52㎢)と竹生島(0.14㎢)とへは渡ったことがありますが、多景島(0.01㎢)は日蓮宗見塔寺の境内になっているとのことながら未踏です。

 なおも思い出した島としては、愛知県知多半島の先端の日間賀(ひまか)島(知多郡南知多町。面積0.77㎢)へは、知多半島の河和港からレーザー級のシングルハンド・ディンギーを操って、12㎞程を、文字通り自力・風力で渡り、一泊して戻って来たことが有りました。30年余り前のこと。

 この図は、岩波文庫・有吉佐和子著「日本の島々、昔と今。」の中の総覧図です。日本列島の有り様が分かり易く描かれています(引用)。



2021年7月8日木曜日

弁護士らしくない話し(其の35)


弟子松本晴充君を悼む

 

 我が弟子松本晴充君が去る6月18日に亡くなりました。

 彼との付き合いは、三十年の長きに亘るものでした。

 出会いの頃の彼にとって、私は、耳の痛い、難しい事ばかりを言う、真に難儀な少〻の年長者ということでありました。が、その後、突如、「師匠」と崇められ、「弟子入り」・・・とのコミカルな関係、珍妙な師弟関係もどきに至ったのは、1995年1月17日阪神淡路大震災の後、私がマラソンを俄に始め、思い起こしますと、その3年後の1998年3月に明石大橋マラソンに初めて一緒に参加したことがキッカケでした。

 私は少〻の距離10㎞でしたか、20㎞でしたかを走りましたが、彼と義兄のH氏とは最短の2、3㎞距離の部門に初めて参加、出走されました。年長の私がそこそこの距離を機嫌良く走ってゴールしたのを見て、断固、自分ももっと走るべし!と発奮されました。これを契機に、ハーフマラソン、フルマラソン、100kmマラソンへと順次距離を延ばし、最盛期は、毎週のようにアチコチの大会へ走りに行くという有様でした。

 彼は、現在は49店舗を擁する会社の代表取締役に就任された2003(平成15)年ころからは、距離42.195㎞のフルマラソンを共に走るようになりました。翌2004(平成16)年からは、100㎞マラソン、広島県福山市から愛媛県今治市まで朝5時から夜9時近くまで走る「しまなみ海道マラソン」に一緒に参加するようにもなりました。また、この間、私は元来、山登りを趣味としております関係から、北アルプス上高地も、果ては、台湾の新高山、現在は玉山3900m余にも一緒に足を延ばしたりしました。アメリカ西洋岸のロスアンゼルスのフルマラソンも共に走りました。モンゴルのウランバートルにて、早朝二人で町の中を走って、人目を引いたこともありました。2012年から5年間、鹿児島県の南の果て、与論島まで距離21㎞のハーフマラソンを走り、無料法律相談を催すということにも、その受付係を快く引き受け、協力をして呉れました。H氏も御一緒に、その後も、早春の上高地や年の暮れの1230日に畝傍・香具山・耳成の大和三山を巡り、関ヶ原古戦場まで足を延ばしたことも、指折り数えると12回、12年間ありました。また、この間、2004(平成16)11月からは、大阪中央ロータリークラブのメンバーとなり、2016(平成28)年7月からは、会長職を務められました。彼にとっては、充実した公私の生活であった筈です。真に良き友、良き弟子でありました。

 幽冥境を異にするに至った今となっては、唯この重い事実を受け留め、故人の御冥福を御祈りするのみであります。

 また、残された私達は、只〻貴君の思い出でを胸に精一杯生きて行く外ありません。

 我が弟子晴充クン、貴君は大いに頑張られ、良く生きられました。この点、師匠としては、大満足であります。真に有難う御座居ました。感謝と共に冥福を御祈りするばかりであります。

合 掌

2020年12月24日木曜日

弁護士らしい話し(其の38)

新型コロナウイルス禍のこと

-本当に高齢者の死亡率が高くなっているのか?—


 大阪大学大学院法学研究の特任教授を10年間務めていた際の同僚の一人に、O教授がおられます。

 O教授は、労働法・労使関係専攻で、且つ、内閣の規制改革委員会の参与等を歴任した人物であって、加えて国立大学の法人化の前後を通じて8年間国立大学における人事労務の現場で実務に携ったという学者ばかりではない、労務の現場を踏まえた極めてAggressiveな研究者であって、日頃からその説かれるところを興味深く傾聴しているところです。

 O教授は、只今は、私立大学へ移られていますが、「現場からみた労働法」というテーマで発信を続けておられるところ、近時は、「数値を読み解く」というテーマを掲げ、各種の労働環境に関する数値を文字通り丁寧に読み解くべきことを粘り強く説いておられます。

 この中で、去る8月に「新型コロナウイルス感染症対策分科会」に、次のような8月時点の死亡者数の百分率が提出されたとのこと。

10代以下  0人( 0.0%)

20代    1人( 0.1%)

30代    4人( 0.4%)

40代    14人( 1.3%)

50代    40人( 3.6%)

60代   114人(10.3%)

70代   302人(27.3%)

80代以上 626人(58.5%)

 しかし、厚労省の2019年の「人口動態統計月報年計(概数)」に拠れば、70代以上の者が死亡者全体に占める割合は、総数1381098人のうち、その85.0%の1174317人とのこと。

 依って以て、新型コロナウイルス感染に限って高齢者の死亡率が特に高くなっている訳ではない、と紹介。

 改めて考えを巡らせると、2020年の死亡者の総計が明らかにならない限り、ともかく高齢者に特に致命的である・・・というのは、確かに如何なものか・・・

 ともかく関心の高さと正確な情報の少なさとが、とかくの言説を流布する温床であることは、社会心理学的には定説の筈!と改めて再認識したところです。

2020年7月6日月曜日

弁護士らしい話し(其の37)


我が国の社会福祉と合衆国の失業保険


我が国の福祉政策は、北欧流の高度福祉国家ではなく、また、合衆国のような低度福祉国家でもない、というような言い方がされていたように記憶。

 福祉政策の財源とされている消費税の税率を捉えて、北欧では、20%以上である一方、我が国では漸く10%。
 今回、この話し、よくよく丁寧に確認して行くべしと考え始めたのは、雇用保険、その中で中心となる失業保険の給付レベルの多寡が気になり始めたことが契機。
 そして、更に、この動機を後押ししたのは、去る5月24日の朝日新聞の次のような投書。

休業手当 金額に目を疑った
・・・休業手当って「平均賃金の6割」以上出ると聞いていたので8640円の6割=1日5184円は出ると思っていた。だが、労働基準法の1日平均賃金の計算方法は、直近3カ月の額面収入÷3カ月の休みも入れた日数、とややこしい。私の場合、1~3月の約53万2千円を91日で割る。約5840円。その6割は約3500円で明細と合う。


 この話しが間違い無いものか?と労働基準法26条(休業手当)「使用者の責に帰すべき事由による休業の場合においては、使用者は、休業期間中当該労働者に、その平均賃金の100分の60以上の手当を支払わなければならない。」との規定について、その算式について、政令、規則は具体的にどのようになっているのか?と「労働法全書」(労働行政研究所編)に当たって見たところ、法レベルの規定の次には、行政解釈が有るばかり。

 そして、その翌日5月25日の朝日新聞の生活欄には、今度は、次のような見出しの記事が掲載。
「休業手当『賃金の6割以上』では?」
「働く予定だった日数分を支給『実質4割しか』」
「多くの人生活できぬ水準」


 具体的には、前述の3か月の日数の「91日で割る」そして、「その6割」に「休日を除いた予定労働日数」、例えば、62(日)を乗じる、ということになっています。
 すると、0.6×62910.4強の日額に!

 ところで、Fireという英語は、真に多義に用いられる様子。
 名詞では、火、火事、情熱、炎症、苦難、射撃。
 動詞では、点火する、解雇する・・・

 かの合衆国大統領の発言では、この最後のFire!馘首!が有名。
 そして、彼の国では、解雇・馘首は、我が国のように厳格には規制されていないと知られるところ。
 嘗ては、労働基準法19条(解雇制限)、20条(解雇の予告)をめぐって蓄積されて来た多数の裁判例は、平成19(2007)年には、労働契約法という実定法の形に整えられ、その第16条は、次のように明規!
「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。」

 これに対し、記憶するところでは、我が国に進出して来た大手家庭用品メーカは、人事問題、解雇問題で、以前には、よく訴訟沙汰になり、徹底的に争っていたことを記憶。

 かくて、合衆国のイメージは、金持ちの国、労働者に厳しい国・・・という労働法的には、我が国よりも後進か・・・との漠然とした思い・・・

 所謂失業保険のケアも、我が国よりは劣後しているのだろう・・・と思っていたところ、改めてその制度について調べ始めると、それは正当な認識ではなかった模様。
 つまり、合衆国の失業保険は、専ら使用者側に税として課せられた原資に依って営まれているとのこと。
 そして、その税についても、州税と連邦税とが有ります。

「合衆国の失業保険」の特徴は、2016年の独立行政法人労働政策研究・研修機構の「米国の失業保険制度(全47頁)」のレポートに拠れば、概略次の通り。

 米国の失業保険は、全額が使用者負担。

 失業保険の運用や財政は、州政府の裁量に任され、財務状況が悪化すれば、連邦政府から有利子で貸与がされます。

 失業保険は、連邦失業税と州失業税を財源とし、原則として、州失業税によって賄われる、州失業税は、殆どの州で使用者のみが負担します(3州を除き)。

 一方、連邦失業税の対象となる事業主は当該年または前年のいずれかの年に、1 人以上の労働者を暦年で20週以上雇用する事業主、または、当該年または前年のいずれかの四半期に合計1500ドル以上の賃金を支払った事業主です。

 一方、失業保険の給付については、20082013年にては、
通常の失業保険(基本26週)
  EUC(緊急失業補償プログラム)(1447週)
  EB(延長給付プログラム)(13週又は20週)

 最大計40週~93週が可能。
 加えて、20092010年に限れば、週25$を追加給付するという連邦追加補償(FAC)が有った。また、連邦職員、退役軍人に対するUCFEやUCX等〻の恒久的制度も有る模様。

 かくて、201314年時点では、1億3千万人が失業保険の対象となり、その受給者数は、毎週200万人~300万人に及ぶとのこと。

 具体的には、連邦平均では、2014年第4半期の週受給額は318$、受給期間は16週。
 しかし、州別では、202$~443$、10.4週~21.6週。バラツキは大きい。

 支給対象となる失業者には、「自身の過失によらず職を失い」、「身体的および時間的に就業が可能で」、「積極的に求職している」ことが求められます。
 また、日本とは異なり、失業保険の年齢区分は存在せず、上述の条件を満たしている限り同様の給付を受けることができます。

 ところで、我が国の雇用保険においては、被保険者は、適用事業に雇用される労働者であって次の者以外のものです。①65歳に達した日以後に新たに雇用される者、②週所定労働時間が当該適用事業の通常の労働者よりも短く、かつ30時間未満である労働者であって、季節的に雇用される者、または1年未満の短期雇用に就くことを常態とする者、③日雇労働被保険者を除く日雇労働者、④4カ月以内の期間を予定して行われる季節的事業に雇用される者、⑤船員保険の被保険者、⑥国、都道府県、市町村等で雇用され、他の法令により離職した場合に求職者給付および就職促進給付の内容を超える給与等を受ける者。

被保険者は4種類に分かれます。第1は一般被保険者です。これはさらに、短時間労働被保険者と、それ以外の一般被保険者とに分けられていましたが、平成19年の改正で短時間労働被保険者の区分は廃止され、一般被保険者に吸収されました。第2は高年齢継続被保険者、第3は短期雇用特例被保険者、そして第4は日雇労働被保険者です。

 最新のネットでの情報では、米労働者が去る5月8日に発表した4月の雇用統計では、失業率14.7%、失業者数約2050万人とのこと。

 2月のそれは、3.5%で、半世紀ぶりの低水準であったとの由。

 一方、5月のそれは、若干改善、13.3%。
 4月より改善ながら、依然厳しい状況。

 我が国の失業率は、3月で2.5%、4月で2.6%、5月で2.9%。
 日本では、失業率が2桁まで上昇するとは考え難いとされているものの、過去にリーマンショック(2008年9月)後、2009年7月には、5.5%という戦後最高水準に達しました。

 今回、このリーマンショックの状況と比較して、既に約1.3倍の落ち込み幅が示されている、として、リーマンショック後を超える6%台という予想もされているようです。

 更に、解雇まで至らずとも、休業を強いられる労働者を潜在的失業者、隠れ失業者とすると、リーマンショック時は355万人、今回は517万人。
 これを含めると、実質的失業率は、11.3%に至るという予測もされているようです。

2020年4月23日木曜日

弁護士らしい話し(其の36)


流行り病いなるもの


 2020(令和2)年は、2月以降、新型コロナウィルス騒動にて、物情騒然・・・
去る4月7日の非常事態宣言なるもの以降、その指定を受けた1都1府5県にては、それなりに物情騒然の筈が、路上の人の往来、クルマの走行は、めっきり減っています。
 とは言え、よくよく過去を振り返って見ると、今世紀に入って以降、このような流行り病いは数年毎に波状攻撃の様相。
 とは言い、目に見える形で、第3次産業を主体に甚大なダメージを被っているのが、ありありと目に映るというのは、初めての経験です。 

 流行り病いに因る物情騒然を遡って行くと、
 2012年9月~MERS(中東呼吸器症候群)。中東地域で始まったものの、韓国で猛威をふるい、未だ中東では収束していないとのこと。
 1997年の香港に端を発する鳥インフルエンザは、2004年には我が国でも感染。「H5N1感染」と表現されている模様。
 200211月~03年7月のSARS(重症急性呼吸器症候群)。
 近くは、2018年9月~豚コレラ、「豚熱(非アフリカ豚コレラ)」が野生イノシシから感染したとして、実に沢山の豚が殺処分されたことは、記憶に新しいところ。

 風土病、地方病という言葉が有ります。
 ペスト菌によって起こる感染症については、地方病的色彩が濃いものであったが、伝染力が極めて強いところから、古来、猖獗を極めた大流行が有名。古くは、14世紀フィレンツェで人口が3分の1に減った折りの事柄としては、ボッカチオの「デカメロン」が有名。
 近くは、20世紀に入っても、カミュが「ペスト」で、フランスの植民地であったアルジェリアでのペストの流行を描いたところ(1947年の出版)。

 1918年1月から1920年までの間に、インフルエンザによるパンデミックとしては、「スペインかぜ」が有名なところ、第一次世界大戦の参戦国では、報道が封じられていた一方で、非参戦国・中立国であったスペインでは、自由に報道がされていたことから、スペインの被害のみに着目され、名称としては、「スペインかぜ」になったとの由。
 これは、その後、H1N1型のインフルエンザウィルスに因るものとされています。
 そして、「スペインかぜ」は、人類最初のパンデミックとも称されている様とか。

 インフルエンザウィルスには、A型、B型、C型とが有り、A型は、症状が激しい、B型は、A型のような大流行は起こさない、C型は、一度免疫を獲得すると、その免疫が持続すると考えられているとのこと。

 只今の流行り病いの、記憶に新しいところのキーワードは、次の2ツ。
  1)重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndromeサーズ
    2002年、中国南部広東省で最初の報告。
    コウモリ外が媒介と言われているところ。
  2)中東呼吸器症候群(Middle East Respiratory Syndrome Coronavirus)マーズ
    2012年、ヒトコブラクダが媒介とされ、対症療法のみとのこと。

 一方、我が国における法的対応としては、その大本としては、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(平成10(1998)年法律114号)が制定され、この法律では、H19(2007)時点で、SARSコロナウィルスが挙げられているところ。

 その後、平成20(2008)年法律30号では、「新型インフルエンザ対策の強化」の改正、この折りの鳥インフルエンザ「H5N1」。

 そして、今回発動された平成24(2012)年法律31号は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」。

 そして、只今の、コロナウィルス騒動に至る、という事の流れ。

 ともかく、今世紀・21世紀に入って、グローバル化の進展と共に、インフルエンザ流行性感冒は、年〻手強くなって来ており、その語義が示す如くinfluence、流行り病いも、星の影響という占星術の言葉に由来するところ、21世紀においては、運命論的に悲観せざるを得ないところの様。

 ところで、皆が知っているも、皆が読んでいない去る4月7日の官報(号外)「新型コロナウィルス感染症緊急事態宣言に関する公示」全16頁を読んでみました。
 併せて、新型コロナウィルス感染症対策の基本方針に関する公示(令和2年3月28日)の一部を変更する公示というものが掲載されており、なかなか興味深いものでした。
「三つの密」「オーバーシュート」も述べられており、最も関心を惹いたのは、次なる記事でした。
罹患しても約8割は軽症で経過し、また、感染者の8割は人への感染はないと報告されている。さらに入院例も含めて治癒する例も多いことが報告されている」と!!
 これが最新の知見の様。

2020年3月19日木曜日

弁護士らしくない話し(其の34)

最近読んだ本の話し

 最近読んだ本は、文明の曙としての農耕社会が捉えられているものであり、それが一体何を齎したものか・・・を今更乍らに考えさせて呉れるもの2冊が印象的でありました。

  1)ジェームズ・C・スコット著
   「AGAINST THE GRAIN A Deep History of the Earliest States」
                   (みすず書房、2019年12月刊)
   (邦題:「反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー」)

  2)ジェイムス・スーズマン著
   「AFFLUENCE  WITHOUT ABUNDANCE:
     What We Can Learn from the World's Most Successful Civilisation」
                    (NHK出版、2019年10月刊)
   (邦題:「『本当の豊かさ』はブッシュマンが知っている」)

 1)は、メソポタミアでの農耕社会の始まりをどのように捉えるか?
 穀物栽培は、国家の創生と裏表であり、穀物というものは、その収穫が同時一斉に行なわれ、貯蔵が効くということから、税として取り立てる対象として最適である。
 狩猟社会では、このような形態での税の取り立てということは考えも及ばないところ。
 依って以て、穀物栽培と国家形成とは、表裏一体とのこと。

 そして、これに引き続いて読んだのが、2)のカラハリ砂漠に住むブッシュマンの話し。
 ここでは、採集狩猟社会と牧畜農耕社会と対比する形で生きることが語られています。前者は、腹を空かせることは有るものの、平等な社会。後者は、富の形成と上下関係の有る社会。

 ブッシュマンの社会では、嫉妬、嫉妬心がその社会を平等なものにしているとの分析。この本は、ブッシュマンは、週に十五時間だけ働いて(=採集狩猟に出掛け、口に入る植物や動物を集める)、それで十分にやって来ていた・・・との話しが中心。

 カラハリ砂漠は、その自然環境の過酷さ故に、採集狩猟社会のブッシュマンが新石器時代から今日まで生存することを可能にした、との極めて逆説的な話しが語られています。過酷な環境なるが故に、近代的な他者の侵入を容易には許さず、採集狩猟を専らとするブッシュマンの今日までの生存を可能にした、という話しは真に教訓的でありました。実に逆説的なストーリー乍ら。

 ところで、石器時代というのは、旧石器、中石器、新石器とに三分された、最後の約1万年を示し、その後の古代文明に至るまでのもの。磨製石器が登場、普及し、生産は、牧畜農耕へ移行。土器も多用。我が国では縄文時代に応当するとのこと。
 因に、旧石器時代は、打製石器、骨角器を使用し、生活は、狩猟、漁労と自然物依存の採集。
 そして、中石器時代とは、この中間の打製石器と祖原的な磨製石器や土器が登場する時代とのこと。
 次なる新石器時代において、牧畜農耕社会の今日に至る生活スタイル。

 そこで一体全体何を考えるに至ったか?
 生きるということは仕事をすることと同義・・・という思い込みは、どうやら新石器時代以降の観念であったのか・・・という漸くの気付き。

 毎日額に汗して・・・というのは、縄文以降の農耕社会的発想であったか・・・という今更乍らの再認識!ある意味衝撃!大いなる驚き!!
 生きることと働くことを同義のように考えることは、これまた一ツの判断停止であったのか・・・と俄かに思い始めた・・・という次第。よくよく考えよう!!というところ。

 近時のネット社会の隆勢を傍から眺めていると、真に小憎くたらしいような、人間のフッ!と思い立ったような小さな欲、欲求を掻き立てて、脹れ上がらせ、これを産業化し、新しいビジネスに仕立て上げる手法!?
 これは、欲望を煽り立てているのがネットビジネスである!と喝破、看破する言説も最近では多く見受けるところ。
 ウーバーとか、ネットタクシーとか、メルカリとか・・・これらは、何れも欲望の解放という言葉で括るような気がしつつあります。

 かくて欲望を解放すると如何なるのか?
 満足!大満足!!との大団円か・・・と思いきや、豈図らん也・・・欲望には限りが無く、もっともっと・・・となり、結局自らの手の内にある金銭の乏しさを嘆くことになるのでは・・・

 今少しく含蓄の有る言葉を補足します。

「反穀物の人類史」の著者は、1936年生まれ、イェール大学の政治学部・人類学部教授。著書の冒頭に、「深まるアントロポセンへと向かう孫たちに」として5名の名前を掲げています。
 Anthropoceneとは、人新世(じんしんせい)と訳され、人類が地球の生態系等〻に重大な影響を与する発端・起点として想定された想定上の地質時代を指すものとして使われ始めた用語のようです。地質時代では、これまで新生代に属すると言われて来ていた筈。これに継ぐものとして、用いられ始めています。

 そして、更に献辞としてか、Epigramとしてか、Claude Lévi-Straussの文章を掲げています。
「文字は、中央集権化し階層化した国家が自らを再生産するために必要なのだろう。・・・文字というのは奇妙なものだ。・・・文字の出現に忠実に付随していると思われる唯一の現象は、都市と帝国の形成、つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、それら個人のカーストや階級への位付けである。・・・文字は、人間に光明をもたらす前に、人間の搾取に便宜を与えたように見える。」

 もう一冊の著者、James Suzman,Ph.D.については、「社会人類学者。南部アフリカの政治経済を専門とする。25年以上、南部アフリカであらゆる主要なブッシュマン・グループとともに暮らし、調査してきた。スマッツ特別研究員としてケンブリッジ大学でアフリカ研究に従事。シンクタンク『アンスロポス(Anthropos)』を設立し、人類学的観点から現代の社会的・経済的問題の解決を図る。ニューヨーク・タイムズ紙でも執筆。本書は2017年度ワシントン・ポスト紙ベストブック50冊および米公共ラジオ局ベストブックに選ばれた」とするばかりで、博士号所有者(英語ならば、哲学博士であろうものの、米語では、博士一般)である外、ネット検索をしても、日本語では、この著書に関する情報のみ。

 そして、この原題は、
 「AFFLUENCE WITHOUT ABUNDANCE:
   What We Can Learn from the World's Most Successful Civilisation」
 (ものに依存しない豊かさ)
  ― 世界一の文明に何を学ぶか ―

 人類史に向かう思想は、異別ながら、通底するものがあったことに驚いています。

2019年12月10日火曜日

弁護士らしくない話し(其の33)


     スフ、Staple、砂糖 商品経済

 幕末の長州に、周布政之助(182364)という藩政改革の指導者と、「航海遠略策」を唱えた長井雅楽(181963)という志士の魁がいたとか。
 尊王攘夷が、その後は、尊王開国に転じるような往時の剣呑な時勢に、結局は、呑み込まれ、何れも自刃。

 周布は、地名から発しており、愛媛県には、周布郡が嘗って有り、また、島根県浜田市には周布川があるとの由。

 片仮名で、スフと書くと、これは人絹、ステープル・ファイバーを指していたとのこと。
 人絹は、人造絹糸の略。レーヨン Rayonの語の由来は、その光沢から、フランス語の光線を表わす語から派生したとのこと。
 ところで、Staple Fiber。これらは2語の英語で、訳すと、何れも繊維を指すということで、重ね詞、濡れにぞ濡れし、の類い。 

 以下、本題です。
 このStapleという英語をランダムハウス英和大辞典で引くと、次の2義が紹介されています。
1 とじ金、ステープル:書類とじや製本に用いるホッチキスなどに使うU字状に曲げた針金。
2 ①《通例 Staples》《主に米、カナダ》(ある国・地方の)主要産物〔製品〕
  ②(市場の)主要産品、固定需要〔信用〕商品、基本〔必需〕食品
 
 三省堂の英語語義語源辞典に拠れば、この後者の語は、古フランス語のestaple=市場に由来するとの由。  

「砂糖の世界史(川北 稔著、岩波ジュニア新書)」を偶然本屋で見掛けて、読みました。(これは、今年のジュニア向けのベストセラーとのこと。) 砂糖は「世界商品」であった!この「世界商品」なる語は、広辞苑には出て来ない用語です。英語では、Staple!そこで、ランダムハウス英和辞典の字義その2に至ります。主要産物、主要商品と邦訳されています。

 ところで、砂糖黍、甘蔗は、熱帯で大規模に栽培されています。いわゆるPlantation、熱帯・亜熱帯地域において、近世の植民制度の下、単一作物の大規模農場です。Monoculture、単一農作物栽培です。
 商品作物を大規模に生産する一方で、その栽培地域は、その地域だけでは自立し得ない状態に陥ります。主食たるべき農産物(米、麦etc.)は他所から運んで来なければなりません。

 そして、栽培は、炎天の過酷な自然条件の下で行なわれ、これに従事する人達を酷使することになります。例えば、奴隷・苦力の導入、先住民の搾取・・・宗主国は賑わうものの、現地は大変です。

 Plantationとして知られている農作物は、綿花、コーヒー、ゴム、タバコ、サトウキビ・・・
 16世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの繁栄は、このPlantationに基礎を置くもので、綿布、鉄砲、ビーズetc.を西アフリカのギニア湾岸へ輸出し、その対価として、黒人奴隷を獲得。大西洋を西へ渡って、南米、カリブ海諸島のPlantationに黒人奴隷を売り渡し、代わりに砂糖、タバコ、綿花をヨーロッパに持ち返るという三角貿易で利益を得ていました。

 飜って、人の歴史というものを考えると、桃源郷は、希れに客(まろうど)が訪れ、何らかの物流が成り立ったとしても、基本的には、自給自足で以て地域社会が営まれていたのではなかろうか、と想像されるところです。

 
 が、人の本性としては、新奇なもの、珍しいもの、効用・効果の優れたものに惹かれるものであることから、結局のところ、砂糖をはじめとする、ある意味それまで無くても実用的には困ることの無かった物を入手する為に齷齪し始め、貨幣経済に至り、結局、債権債務の罠に陥るようであります。
 人が対価を支払っても手に入れたい!と考え、行動を始めるところから、物〻交換から、貨幣経済へ移行し、そして、元〻は交換の媒介物であった貨幣そのものを操ることを専らとする者が優位に立つ資本主義へ至るもののようです。
 このような視点からすれば、商品経済、つまり自給自足を超えて取引がされる商品の登場は、遅かれ早かれ事を此処に、必然的に至らしめるもののようです。

 かくては、人としての振る舞いは、このような商品経済とどのような間合を置くべきか、間合を取るか・・・ということで以て、自らの立ち位置を自ら確保しない限り、商品経済の波に搦め捕られることは必定。
 それは、件の商品が形ある物であっても、近時、猛威を振い、市場を席巻しているサービス、情報の類いであっても同じことの模様。否、むしろこれらの方が量的な面では、各人にとっての適量なるものが一向に目には見えて来ず、ズルズルと深みに嵌ることになる様子・・・

 昨今のネット依存の現象は、物ならば適量が見え易いものの、情報、ソフトであれば、それがより見え辛いことに由来するのでは・・・との漸くの気付き・・・そこで、対策としては、かくては、これらの世界の外に、何とか自らの立脚点、立ち位置を確保せねば、巻き込まれ右往左往!神を立てるか!無批判に他者の託言に身を委せるか・・・ともかく自らの足許をどうするのか?
 
 小乗仏教の出家者は、金銭に触れないとして、傍らの侍者が扱うとの由。