2022年6月15日水曜日


島の話し

      -日本の島を訪ねる-
 

(はじめに)

 1965(昭和41)年に設立された公益財団法人日本離島センターが発行している書籍に、「SHIMADAS(シマダス)」があります。1743頁という大部です。北海道から沖縄県まで全国1750の島〻が掲載されています。

 我が国は、大八洲(おおやしま)と称し、大八洲国、大八島国とされている際の、八ツの島は、本州、四国、九州。以下については、諸説が有って、隠岐、佐渡、淡路、壱岐、対馬か・・・

 扨、そもそも私は山ヤです。Mountaineerであります。 今日では昔話しの世界ですが、1969(昭和44)年1月のT大入試中止ということが無ければ、某大学の学士山岳会の会員となって、山ヤの本懐を遂げており、弁護士にはなっていなかったではなかろうか、と時折想像することがあります。

 そのような私が何故に島の話しを・・・

 深田久弥なる作家が著した「日本百名山」なる随筆は、1964(昭和39)年7月に出版され、この百名山にチャレンジする人達が澎湃・・・

 私も会員の公益社団法人日本山岳会が1978年に百名山に200座を加えて、日本三百名山を選び、その後、更に、1984年に、これを絞り込んで日本二百名山としたという話しがあります。

 明大の山スキー部出身の田中陽希という若い衆(1983年生)の、BS-NHKの番組「グレートトラバース」と題する山旅映像が有名ですが、これは、先ず、百名山→二百名山→三百名山と上り継いだ話しです。その始まりは、2014年に鹿児島県屋久島の宮之浦岳から北海道利尻島利尻岳までの百座を、次は、2015年に、北海道の宗谷岬から鹿児島県の佐多岬まで二百名山の百座を、そして、2018年1月には、初回同様に宮之浦岳から始めて301座に登ったという御話し。陸は全て歩行、海はシーカヤックで渡ったようです。因に、300名山が301と字余りとなったのは、新潟県の荒沢岳が加わっているからとの由。

 

(以下、本題)

 長い前置きでしたが、漸く話しは本題へ。

 山ヤであった筈の私は、その後も時として山に登り、百名山の伝で言うならば、南は鹿児島県屋久島の宮之浦岳、北は北海道利尻島の利尻岳etc.と登って来ました。

 が、1995(平成7)年1月、阪神淡路大震災にて自宅は全壊・・・かくて、少〻の避難生活。そこで、思い付いたのは、山ヤを続けるには、道具がソコソコ要るが、ランニングなれば、要るものは極く僅か・・・其処で日本各地、アメリカ西海岸まで走りに行くことに。

 その中で出会ったものに、有志弁護士による離島への押し掛け法律相談。2011(平成23)年5月の与論島での「離島相談」。これに参加させて貰ったところ、無弁地域であり、簡易裁判所も家裁出張所も無い与論島では、毎年3月にマラソン大会が開催されるとのこと。そこで、翌2012(平成24)年から2016(平成28)年まで5回連続して、マラソン&無料法律相談に出張ることに。

 かくて、山ヤ、マラソンマンの果てとして、私的には、その後のマイブームであるのが「島旅」なのです。

 真に長い話しのマクラ。(極く最近、春風亭一之輔の「いちのすけのまくら」(2022年4月、朝日新聞出版)を読んで、早速に感化され)

 屋久島の宮之浦岳、利尻島の利尻岳から始まり、佐渡の金北山、石垣島、西表島、奄美大島、大分県国東半島の沖の姫島、小笠原父島・母島、家島三島、加計呂麻島、島原上島・下島・・・

 

(島、離島というもの)

 先ず、島の定義から始めると、「広辞苑」に拠れば、「周囲が水によって囲まれた小陸地」との由。更に、「成因上から火山島・珊瑚島・陸島などに分類。」

 前二者は分かるような気がするので、陸島を更に引くと、「大陸島に同じ」とあるので、これに当たると、「大陸の一部が断層・海食などにより大陸から分離され、または大陸付近の水底が隆起して生じた島。大ブリテン島の類。陸島。分離島。」。対するに、「大洋島」「大洋中にある島。大陸と関係がない。火山島・珊瑚島など」と。

 小笠原諸島は、大洋島で我が国でも珍しいとのこと。すなわち、日本の殆どは、大陸島、陸島ということ。

 次に、「離島」という言葉を引くと、「陸地から遠く海中に離れてある島。はなれじま。」との由。

 この場合、「遠く」という表現がされているところが少〻情緒的ではあるも、昨今の橋が掛けられた島〻がこれに当たらないことは間違いないであろうところ。

 前述の「SHIMADAS」は、全国1750の島〻の総合案内書を謳っているところ。

 一方、「島の名前 日本編」という海洋写真家 中村庸夫(1949~)が出版した写真集には、北方領土・択捉島から始まって、尖閣諸島まで各言及しているものの前者は遠い島影の写真、後者は、写真は無し。結局、国の果て、国境の付近では色んな難しさが絡んで来る模様。南の方の写真は、与那国島まで。

 そして、「原色 日本島図鑑」新星出版社、2011年3月発行、加藤庸二著、全383頁は、「日本の島433 有人島全収録」と謳い、ともかく北方4島、竹島、尖閣諸島にもコメントしています。とまれ、この書を信頼すれば、日本の有人島は全部で433ということになります。

 かくて漸う私が現に訪ねた島の話しに入ります。

 物心がついた頃から今まで神戸に住んでいることから、島と言えば、淡路島。高校生で、四国九州へ。大学生で、壱岐へ。また、淡路島の南の沼島、天浮橋の上からイザナギとイザナミの持つ天の沼矛の先から落ちた滴の固まりとの沼島(2.73㎢)へも。

 そして、百名山に出掛けるべし、と利尻島の利尻岳、屋久島の宮之浦岳、佐渡島の金木山。震災で仮住まい中に、俄かに、南の島へ行こうと思い至り、石垣島西表島へ。一方で、市民ランナー、マラソンを始め、ハワイへ3度。また、台湾の玉山(日本名「新高山 ニイタカヤマ」)へ登り、那覇マラソンと、しまなみ海道100㎞ランは、各4度走り、前述の2011年5月の大川哲二弁護士主唱の離島法律相談に参加し、沖縄返還(1972年)前は日本の最南端であった与論島の現在を実地に体感。同地の歴史では、米軍統治時代には、裁判所が有ったとの情報(依然調査中ですが、裁判所にもその頃の記録は残されてはいない、との回答)。なお、しまなみ海道は、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、(越智)大島を経由。

 ところで、2011年に、早晩与論島では、法務局の出張所も廃止に至るとの話し。真に痛切な離島の法的サービス、法治の危うさを知り、毎年春3月には、島周囲のマラソン大会が開催されると知り、翌2012年3月から大会の前日と後日に無料法律相談を実施することに。

 この企画は、2012年から2016年までの計5回、島一周のハーフマラソンの前後の日に、町の協力を得て、開催出来ました。2013年から、奄美大島の公設事務所に居た鈴木穂人弁護士も参加して呉れ、また、2016年には、伜の南川克博弁護士も福岡から参加し、ラン&法律相談をすることが出来ました。この国は、法の支配の行き届かぬところが未だ未だ多いようです。


(塩飽本島)

 201210は、岡山県の笠岡市からその沖合の、白石島真鍋島を経て、香川県丸亀市に属する(塩飽(しわく))本島へ日帰りで。

 塩飽と言えば、織豊期以降、御用水主(かこ)を勤め、650人の水主は、大名、小名ならぬ人名(にんみょう)と呼ばれ、この本島には、史跡塩飽勤番所跡が有り、歴史の香りのするところ。


(奄美大島、加計呂麻島)

 与論島で知り合った鈴木弁護士は、折柄、奄美大島の公設事務所に居たことから、2013年から奄美大島を訪ねるようになり、喜界島にも立ち寄り、その翌2014年からは、その隣りの島の加計呂麻島のマラソンにも連続して参加するようになりました。

 奄美大島と加計呂麻島との間の海峡は、大島海峡と言いますが、1945年に戦艦大和が沖縄へ特攻出撃する際に、最後の休養を摂ったところ、また、加計呂麻島は、「震洋」なるベニヤ板を張った船で特攻作戦なるものが展開されるべく、戦後に作家となった島尾敏雄が隊長を務めていた基地があったところです。

 なお、加計呂麻島は、作家・漫才師の又吉直樹氏の母堂の出身地との由。

 また、加計呂麻島の諸鈍の浜は、赤いデイゴの花が名物ですが、フーテンの寅「男はつらいよ」第48(199512月公開)「寅次郎紅の花」の舞台、ロケ地となったことでも有名です。

 この作品は、寅さんがその後震災後の神戸市長田区を見舞うという展開でした。


(与那国島)

 2015年2月には、与那国島へ渡りました。

 大阪→那覇→与那国島のフライトです。与那国島の現地表現は、「どなん」とのこと。「渡難」と書くとのこと。文字通り、渡るのは難しい島との由。沖縄本島から500km、一方、台湾までは、111km。我が国の最西端。終戦直後は、台湾等との密貿易で繁昌し、一時は人口1万2千人に及んだものの、近時は、1千5百人を割っていたところが、2017年には、中国を念頭に置いた防衛力云〻の話しから、レーダー基地が設けられ、陸上自衛隊員とその家族を合わせて、250人程が転入し、1千7百人余に増加したとのこと。与那国蚕(ヨナグニサン)は、日本最大の蛾であって、東宝映画「モスラ」のモデルであったとか。

 この島では、公共交通機関は、所謂コミュニティーバスのみ。4日間の滞在で略隅から隅まで。

 与那国島は、1946(昭和21)年から51(昭和26)年までの5年間、「ケーキ(景気)時代」と呼ばれ、こぞっと密貿易に関わったとの話しが有り、フリージャーナリストの奥野修司(1948~)が「ナツコ 沖縄密貿易の女王」という大宅壮一ノンフィクション賞の作品で、金城夏子(191554)について詳しく述べています。その最盛期、与那国島の人口は、2万人を超えていたが、今は、その10分の1以下とも。

 また、後述の有吉佐和子は、この書の中で、この島の方言では、他島のY音がD音に転じている例があるので、ドナンはユナンに等しいと述べています。そして、ユウナ(学名オオハマボー)に言及。この花に因んだ孫娘の名前と同じ。


閑話休題

 和歌山県出身の作家・有吉佐和子(193184)は、「紀ノ川」「華岡青洲の妻」の外に、「恍惚の人」「複合汚染」などの社会問題を扱った作品を残しています。

 その有吉は、1980年に、実地に島を訪ねて、なかなか読ませる一連のルポルタージュを残しています。題して「日本の島々、昔と今。」。岩波文庫で全512頁。

 今改めて読み返すと、その時代の問題を適確に指摘し、今もなお考えることを果断に要求しているようです。

 北は、北海道の焼尻島・天売島、南は、小笠原の父島、西は、与那国島を訪れ、加えて、竹島・択捉・国後はともかく、尖閣列島へも渡ろうか、と試みる(勿論、果たせてはいないが)、大ルポルタージュです。元〻、集英社の月刊文芸誌「すばる」に連載された一連のルポで、具体的な記述を追うと、1979(昭和54)年、1980(昭和55)年の体験等が記されたもののよう。

 只今は、岩波文庫(緑帯)で2009(平成21)年に刊行されており、真に割り切りが良いと言うか、頭の回転が速いというか、少〻異論は有るものの、戦後30年を経た頃合の、日本の島〻での体験が雄弁に、歯に衣着せず語られています。

 大いに共感し得るところも、それは如何なものか・・・と首を傾げるところもありました。が、中でもこれは多分事実であって、私が一方的に誤解していた、不勉強であったところとして、1541(天文10)年7月に種子島に漂着したポルトガル船、ポルトガル人が火縄銃を伝えた・・・との話し、これは、ポルトガル船に非ずして、中国、当時は明の安徽省出身の商人王直、字は五峰の船であって、マカオを出港した後に、海賊に襲われ、また、大暴風雨に遭って、種子島へ漂着との由。マカオで雇い入れた船員の1人にポルトガル人がいて、雇主の王直の方が通訳を装ったことから、ポルトガル船の難破と誤解せしめた、との由。

 その頃には、ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)には、ポルトガルの商館があったという前提で、ポルトガル船の難破と思い込んでいたところ、これは雇主の王直が巧妙に立ち回った結果とのこと。

 改めて裏を取る必要が有るように思うものの、当時、明国の貿易商人王直が五島列島の福江に天文9(1540)年に現れたという記録が有るとのことであって、それなりに信憑性の高い話し。

 どうして、バタヴィアからポルトガル人が日本まで・・・との予てよりの長年の疑問は疑問として正しかった・・・と独り納得。

 この点につき、なお、山川出版社の日本史広辞典にて、「王直」の項に当たると、これを支持する記述がされています。

 なお、余談次いで乍ら、イベリア半島の付け根のナバラ王国(現スペイン)出身のザビエルの来航は、1549(天文18)年7月のことであり、離日は、翌〻年とのこと。

 長崎より前の出島が平戸に設けられたのは、1636(寛永13)年。

 其処から、ポルトガル人が追放されたのは、1639(寛永16)年のこと。

 遙けき昔であって、ポルトガル人云〻との話しになると、この辺りの機序は往〻錯覚に陥るところ。これらは、鉄炮記(慶長11(1606)年撰述)の記述を丹念に読めば分かることらしい・・・


(隠岐)

 2015年6月には、空路、隠岐へ。隠岐は、旧国名にもなっているところ乍ら、隠岐島なる島はなく、本土寄りの知夫里島、西ノ島、中ノ島の3ツを纏めて「島前(どうぜん)」と呼び、「島後(どうご)」が最大の島。

 承久の乱(1221)に敗れた後鳥羽上皇が流され、そして、17年程生きたというのは、島前の中ノ島、一方、その後、百年余の建武年間の前の元弘2(1332)年、後醍醐天皇が流され、脱出し、都へ戻ったのは、島後。大阪からは、空路僅かに50分。


(小笠原諸島)

 2016年3月には、いよいよ小笠原諸島の父島へ。竹芝桟橋を昼に出た「おがさわら丸」は、翌日昼過ぎに25時間余を要して、父島に到着。東京から南へ1000km

 この船中、右手遥かに夕暮れの八丈島を望んでから、残り700kmは何も無し。否、孀婦岩という伊豆諸島の最南端に位置する、真に印象深い海面から99m屹立している真にインパクトのあるLand-Markがありました。

 その位置は、鳥島の南76kmと言われており、その鳥島は、都庁から582kmと言われているので、結局658km

 この折りの「おがさわら丸」は、所要25時間余りで、1000kmということですから、時速40km。従って、八丈島付近では、竹芝を出て、7~8時間が経過、この孀婦岩辺りでは、16時間経っている状況。何れも夜闇の中での望見ながら、海面は波が光を反射して、朧ろながらも、その形は見た!と今も信じているところ・・・

 小笠原諸島は、大洋島です。大陸の一部になったことはありません。従って、その生物相は、真に独特なものです。が、人が流れ着いて住み始めてから、その固有さは、次〻と崩れて行きました。自然にとって、真に人、人間というものは、迷惑至極のモノのようです。父島の南端から西1㎞にある無人島の南島(0.34㎢)では、絶滅したというカタツムリ(学名:ヒロベソカタマイマイ)の半化石した殻で一面埋め尽くされた浜辺・・・嘆息・・・

 ところで、「ボニンブルー」という言葉があります。伊豆諸島の南部・八丈島辺りも、江戸時代に「無人島」「ぶにんじま」と呼ばれており、「ブニン」→「ボニン」と転訛したとの説が有力のようです。

 ランダムハウス英和辞典には、Bonin islandsで検索すると、the Bonin Islands、小笠原諸島、ボニン諸島:面積104㎢。〔無人(ぶにん)より〕と掲載されています。

 近時は、小笠原の青い海をBonin blueと表現しています。

 私の乗った旧おがさわら丸は、東京─父島を25時間半で結んでいました。これが新造の只今のおがさわら丸では、24時間となったとのこと。僅か1時間半の短縮で、何が新造船か!?・・・と思われるでしょうが、これには小笠原諸島なりの理由が有るところ。

 つまり、小笠原の生活は、父島(23.45㎢)と竹芝桟橋との往来について、先ず、片道丸1日を要する、ということを前提に、到着後は父島では3日、竹芝では1日の停泊。

 この間、南へ約50㎞の母島(19.88㎢)で1泊。最南峰の乳房山(標高463m)による。これら6日ワンセットを原則として、生活が営まれているような印象。

 父島での港の出入り、特に東京への戻りの出港に際して、島の人〻がてんでに船で伴走・併走して港の外まで派手派手しい見送りをして呉れたのが、真に印象的でした。

 ところで、小笠原村は、父島には、2千人余、母島には、4百6十人余の人が住んでいるものの、無弁地域です。法務局も有りません。裁判所も有りません。警察、消防は有りますが、難しい手術を要する急病人などは、南の果ての硫黄島から自衛隊のヘリを飛ばせて、東京まで急送するとのこと。

 なお、小笠原には、東京都小笠原支庁が置かれています。が、○○郡なる表記は有りません。(小笠原諸島は、北から南へ聟島列島、父島列島、母島列島、南北2ツの硫黄島(イオトー)から成る火山列島から成っていますが、これら全てが小笠原村です。なお、鹿児島県にあるのは、イオウジマです。その別名は、「鬼界島」。)

 この点、後に紹介する八丈島も、東京都八丈島(東京都八丈支庁がある)です。


(家島三島)

 2016年7月には、播磨灘、姫路の沖合の家島諸島の家島・坊勢島・男鹿島を駆け足で。これは京阪神から日帰り可の島旅。

 2017は、オーストラリアのウルル(旧称エアーズロック)に駆け足で登り、越中の雪の毛勝山に登り、11月には、恒例の加計呂麻島のRun2018は、島原の最早島巡りとは言い難いレインボーブリッジを経ての、天草上島&下島へ。2019には、奄美大島と与論島の間の徳之島へ。なおも、沖永良部島は、未踏。2020年4月には、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言。近場の山登りに専念。


(八丈島)

 昨年202110には、八丈島へ。小笠原へは、行き帰り船で各1日を要すことは紹介済み。八丈島は、伊豆七島の南端に位置します。東京都八丈町です。

 東京から南へ300㎞。面積69㎢、周囲51㎞、人口7千6百人(2016年6月)。

 竹芝桟橋から船では10時間とのことですが、伊丹→羽田→八丈と飛行機では乗り換え時間を入れても、計2時間、真に呆気ない旅でありました。

 大島、利島(としま)、新島(にいじま)、神津島(こうづじま)、三宅島、御蔵島、そして八丈島が伊豆七島!?然るに、名称は、伊豆七島。

 その由来は、江戸時代には、伊豆奉行の管轄にあったからとのこと。話しによれば、昔は十の島ということで、八番目が八丈島、十番目が十島→利島であったとか。

 八丈という名前は、「黄八丈」つまり、特産の絹織物に由来する模様。尤も、「本土を出て八番目に到着する島」だから、という説も有るとのこと。

 所謂コミュニティ・バスが走っているものの、人口よりも自動車登録台数の方が多い、というような話しも聞きました。ナンバープレートは、小笠原も同様ですが、「品川」です。

 島の中心には、北の八丈富士(854m)と南の三原山(701m)が聳えており、是非、八丈富士には登り度い、と思い、海抜700m程の車道の終点までタクシーを駆りましたが、其処から先については、次回を期しています。

 ところで、三原山と言えば、自殺の名所であった・・・というような朧ろの記憶を運転手に質したところ、それは、伊豆大島の三原山でしょう、と言われ、誤解していたことに気付くも、これら二ツの三原山のうち、八丈島の方が標高が90m高いことを確認して、妙に納得・・・

 八丈島の有名人は、豊太閤の五大老の最若手の宇喜多秀家(15721655)で、関ヶ原の戦(1600)に敗れて、九州へ逃げ、島津に匿われていたものの、結局、流されたという史実。生没年からすれば、278歳で大老→敗者、果ては、823歳まで長寿を保ったということ。それでも、往時は、責任というのは、個人ではなく、家が負ったということから、徳川の天下が引っ繰り返る明治まで、その子孫は流人の子孫として赦免されなかったとの由。

 ところで、宇喜多は浮田とも書き、その出身は、岡山は児島湾の干拓で有名な処。泥地を田に干拓・・・つまり、浮いた田→宇喜多。

 そう言えば、大阪にも浮田町が有り、また、埋め田→梅田も有るところ。


(対馬島)

 そして、直近は、今年2022年1月に、対馬と壱岐へ行きました。博多港からジェットフォイルで対馬の厳原へ、下対馬と上対馬をグルリッとバスで一周、帰りは、壱岐の郷ノ浦へ寄って、博多に戻りました。予てより対馬は、果たして一ツの島なのか、二ツの島から成っているのか・・・気になる辺りには、日露戦争前に対馬の中央付近を開削して、日本海から東シナ海へのショートカットの水路が設けられたものの、この水路は、実戦では功無しながらも、なおも地図を見て、対馬は一ツか、二ツから成るのか?と悩ませるばかり・・・上下一対の島の南北は地峡でつながった一ツの模様・・・

 上対馬の北端の展望台からは、夜にはプサンの街の明かりが望めるとの由。

 帰りに寄った壱岐では、大学二年生以来、半世紀を経て、その中心地の郷ノ浦に立ち寄ったものの、真に今昔の感頻りでありました。

 ところで、対馬島(つしまじま)は、全島で1市=対馬市。壱岐も同じく1市=壱岐市。面積は、696.10㎢と133.80㎢。人口は、3万5千人と3万人。

 上対馬の比田勝港は、一時釜山からの船で賑わい、対馬の総人口と同じ韓国からの旅行者が訪れたとか。これは年間の訪問客数に非ずして、瞬間の人の出の数の模様・・・

 しかし、今回訪れたときは、多分政治的理由から該国際航路は廃止の憂き目に遭い、対馬の観光業は一気に大不況に陥った有り様。

 対馬の支配者としては、「宗」氏が有名なところであり、元〻は「惟宗」姓であったものの、大陸、中国、朝鮮と交際するに際して、二文字「惟宗」よりは、一字姓の「宗」が好都合と名乗りを改めたとの話し。

 ここまでは知っていたものの、現地を訪れて知ったのは、対馬では、阿比留(あびる)の姓が多く、これが元〻対馬の支配者であったとのこと。

 因に、惟宗氏は、讃岐国香川郡を本貫とする秦氏(日本史広辞典)とされていることからすれば、何れも大陸との通路であったことの強い影響が考えられるところ。


(おわりに)

 島に行って何が楽しいか?自問自答・・・懐かしい時代が残っている、それらに出会える・・・ということが、その魅力か。

 島に橋が架けられると、島の利便性が向上するという風に言われていた時代を経て、島の人と物が地続きになった本土或は大きな陸地の方に吸い寄せられる、果ては吸い取られるというストロー現象が指摘されて久しいようです。

 我が国の有人島は、全部で433有るとのことです。

 未だ訪れた島の数は、百にも至っていませんが、更にシコシコと訪ねるべし、と考えるところです。

 そして、大八洲国の名で呼ばれていたこの国は、初めは、本州、四国、九州の3ツは動かないものの、以下は、諸説有って、隠岐、佐渡、淡路、壱岐、対馬の島を挙げるものもあるとのことの意味が改めて知られました。

 なお、島嶼と漢字で書いて、島は大きな島、嶼は小さな島を意味するとのこと。

 PolynesiaMicronesiaIndonesia nesiaは、島嶼国家を指すとの話しも有るところ。

 今後共、機会を見付け、シマに渡り度いと念願の一席でありました。(シャンシャン-お囃子-


 追而、日本最大の淡水湖・琵琶湖には、島が三ツ有ります。このうち、沖島(面積1.52㎢)と竹生島(0.14㎢)とへは渡ったことがありますが、多景島(0.01㎢)は日蓮宗見塔寺の境内になっているとのことながら未踏です。

 なおも思い出した島としては、愛知県知多半島の先端の日間賀(ひまか)島(知多郡南知多町。面積0.77㎢)へは、知多半島の河和港からレーザー級のシングルハンド・ディンギーを操って、12㎞程を、文字通り自力・風力で渡り、一泊して戻って来たことが有りました。30年余り前のこと。

 この図は、岩波文庫・有吉佐和子著「日本の島々、昔と今。」の中の総覧図です。日本列島の有り様が分かり易く描かれています(引用)。



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