2016年12月28日水曜日

弁護士らしくない話し(其の18)


参州吉良
 
 参州吉良へ行ってきました。
 吉良上野介の知行地です。
 平成の大合併以降は、愛知県西尾市吉良町ということになっています。
 
 上野介と言えば、忠臣蔵のHeelということになっており、地元での名君としての誉れと相反すること甚だしいものがあります。
 赤穂浪士の討ち入り(1703年)の前に、「浄瑠璃坂の仇討ち」という事件があり(1672年)、これは自害した父の仇を討ったということで、世上大いに賞賛され、浪士は他藩に高禄で召し抱えられたとのこと。
 が、この間に、時の将軍は、文治政治を唱えた第五代の綱吉に変わっており(16801709年)、例の「悲劇」の顚末となったという次第。
 
 また、この前には、荒木又右衛門の伊賀越、鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討)があり(1634年)、これらは「江戸の三大仇討ち」と称するとか。
 
 扨て、吉良の話しに戻ります。名鉄「上横須賀駅」の前には、地元の三名士のモニュメントが立っています。時代の順では、吉良上野介義央(よしひさ、よしなか)、吉良の仁吉こと太田仁吉、そして、尾崎士郎の三人です。
 
 義央は、忠臣蔵の話しとは大いに違い、地元民から敬愛された名君であったようです。(常識的に考えても、どのような行き違いがあったにせよ、殿中で刀を抜いて切り付けるというのは、常軌を逸していたことには間違いないようです。)
 吉良の仁吉は、天保年間の荒神山の戦いで妻を離縁してまで義理に殉じた侠客ということです。
 そして、この話しを世に広めたのは、「人生劇場」の作家・尾崎士郎ということで、実に面白い組み合わせの、三名士です。
 
「人生劇場」は、尾崎士郎の自伝的大河小説で、昭和8(1933)年から34(1959)年まで、新聞小説として続いたとか。
 この「人生劇場」は、村田英雄の歌謡曲で有名で、「やると思えばどこまでやるさ」「義理がすたればこの世は闇だ」「時世時節は変わろとままよ」「おれも生きたや仁吉のように」というフレーズで人口に膾炙しています。作詞家は、佐藤惣之助で、昭和13(1938)年に発表されています。が、浪曲師出身の演歌歌手村田英雄が、昭和33(1958)年に古賀政男に見出され、「人生劇場」をリバイバルヒットさせたとか。
 
 東映映画「人生劇場『飛車角と吉良常』」(昭和33(1968)年)では、主役の飛車角を鶴田浩二が、また、吉良常を辰巳柳太郎が演じていました。この人物の本名は、太田常吉で、吉良の仁吉の血ひく・・・という設定でした。
 
 ところで、忠臣蔵の発端の刃傷の原因説の中に、吉良の塩と赤穂の塩の市場争いがある、というのもあるようです。確かに、吉良の塩というのは、良質なものであったようである一方で、昭和に幕引きがされる前には、赤穂から吉良へ技術導入がされた時期もあったとか。
 また、三河の八丁味噌には、吉良の塩が用いられていました。

2016年12月22日木曜日

弁護士らしい話し(其の24)

「とかくお金というものは・・・」

 1214日の新聞朝刊に、「簡宿で死亡 遺品2千万円」「西成 住人男性 身内現れなければ国庫に」(朝日)、「簡宿で男性死亡」「室内から2000万円」「西成 数年前から寝泊り」(産経)と報じられていました。これは、1130日の官報に掲載された「行旅死亡人」公告を受けての報道です。

 明治32(1899)年の法律(第93号)に「行旅病人及(び)行旅死亡人取扱法」というものがあります。
 古い(?)表現では、「行き倒れ」の人達について、どのように扱うかという法律です。
 この法律の1条2項に「住所、居所若(しく)は氏名知れず且(つ)引取者なき死亡人は行旅死亡人と看做す」と規定しています。
 2条は、「市町村これを救護すべし」としています。
 そして、救護費用は、被救護者の負担とし、これが弁償されないときは、扶養義務者の負担とする、とし、費用の弁償に関しては、民法878条(扶養の順位)の規定も定めています。
 9条は、官報に拠る公告を定め、1014条に定めるところからは、相続人との間で前述の費用弁償なり、遺品たる遺留品なりの処理を果すことになっているようです。

 かくて、最終的に身元が分からず、相続人の存在が明らかにならなかったときは(民法951条は、「相続人のあることが明らかでないときは・・・」と規定)、相続財産法人となり、管理人が選ばれ、特別縁故者にも引き継がれなかったものは(身元不明であれば、特別縁故者も無しとされるであろう)、最終「国庫へ帰属(民法959条)」することになります。
 当の本人は、6年以上前から毎月2万4千円の宿代を払っていたとのこと。

 ところで、私の関心は、金を残して勿体無いということではなく、日本人のメンタリティ、並べて見られる通弊として金を上手に遣えない、ということにあります。

 贅沢は敵!「・・・したつもりで『つもり貯金』」・・・ともかく金が貯ることは善で、出て行くことは悪・・・本当にそうであろうか?答えは、否!金は回らなければならぬのであります。
 質素倹約は、善!贅沢蕩尽は悪!と言っていると、金を支出するときには、後ろめたさが付き纏い、金を節約し、貯め込むことに喜びを感じるようなメンタリティ、思考回路が出来上がって仕舞う様。
 これが続くと、年金等の収入も節約し、貯め込み、自らの為には遣えず、特殊詐欺、つまり、孫子(まごこ)からのオレオレ詐欺、つまり「助けて呉れろ!」と持ち掛けられると、コロリッと・・・いうように思われてなりません。