2019年3月8日金曜日

弁護士らしくない話し(其の29)


鰥寡孤独
 
  カンカコドクと読みます。 
 その意味は、妻のない男(やもお)と夫のいない女(やもめ)と親のない子、みなしごと子のない年寄りの四ツを並べて、よるべの(寄方、寄辺)のない人〻を指すとのこと。
 英語では、WidowerWidowOrphanの表現は有っても、一人暮らしの老人=孤老を一語で指すものは無い模様。


 
 改めて中国語の奥深さを感じるところです。

 とは言え、簡体字を以て、このような言葉が書き現わされ得るものかどうか・・・

 言葉は、書き記され、書き表されないようになったときには、亡んでゆくようです。

 我が国は、明治までは、ともかく漢籍を読みこなすこと、そのことが教養でした。
  明治の文豪、鴎外の小説を読んでいると、その漢語の語彙の豊かさに圧倒されるところがあります。
 
 鴎外の生涯は、18621922年、つまり文久2年から大正11年までの丁度60年であって、大正から明治に移る頃に、丁度50歳!

 大正5(1916)年前半に著した「渋江抽斎」には、「技を售ろうという念がない」「老驥櫪に伏す・・・」とあって、漢和辞典に頼ることになります。
「售る」は、「讎」の俗字であって、むくいるの意から転じて、「うる」の意の専用字となった、とのこと。
 ならば、馴染んでいるところの「売る」は?元〻「買」「賣」に由来し、「うりかい」のうち「うる」の意味を主に表わすようになったとのこと。
 一方、老「驥」がすぐれた馬を指すことは分かっても、「櫪に伏す」とは??馬が厩の中で寝ている意から転じて、老人が人の養いを受けていることを指すとのこと。
 
 真に豊かな漢語の表現ながら実にとつおいつの、必死の読み進み振り・・・
(これは、只今のカタカナ文字多用の現代文を意味を理解しつつ読み進めることがどこまで出来ているのか?ということと通底するものか、しないものか・・・

 昨今、新聞誌上での書籍の広告などを見ていますと、子供に限らず、大人であっても、その人の能力とは、語彙の多少に比例するとするものが多い様子。
 とは言え、我が日本語は、特にオノマトペ(擬音語、擬態語)の数が突出しているところ、このようなオノマトペは、豊かな語彙を築くものか否か、疑問無しとはしない模様。少なくとも、仲間内での意思の疎通には大いに寄与するであろうものの、より大きな交わりの中では、相互の理解、意思の疎通に寄与するものか?本来的な語彙、用語の幅を痩せ衰えさせないものか・・・

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