2019年3月15日金曜日

弁護士らしくない話し(其の30)


徳之島へ行ってきました

 南西諸島、薩南諸島へ機会が有れば・・・と出向いています。

 これまでに行ったことがあるのは、石垣島、西表島、沖縄本島、そして、無料法律相談会&マラソンと称して5回足を運んだ与論島!
 与論島は、沖縄の本土復帰(1972年5月)までは、この島が日本の南端と意識されて、観光客で大変に賑わったようです。

 この島を最初に訪れたのは、八年程前の無料法律相談会に参加してのことですが、その翌年から五回連続しての押し掛け、ハーフのRun&相談会!を行ない、昨年からは、息子(福岡県弁護士会所属)が地元の方〻と一緒に続けて呉れています。
 その後、与那国島(2015年)も訪ね、また、離島繋がりで小笠原父島、母島(2016年)にも足を延ばしました。小笠原は、東京都大島郡小笠原村です。

 また、那覇マラソン(フル)も、過去に3回走っています。
 近時は、甚だ控え目な10㎞のランを、奄美大島の向かいに見える加計呂麻島でポツリポツリと続けている状況。
 この加計呂麻島は、フーテンの虎の最終作品のロケ地であり、もっと古くは、特攻兵器「震洋」の基地が昭和20年夏にはありました。昭和20年3月26日、沖縄戦が始まったものの、その失陥は時間の問題となり、米軍の本土攻撃に備えるべし、として登場したものが、特殊兵器、特攻兵器と称する全長5.1m、速力23kt、爆薬250kg搭載の「震洋」です。1人乗りの1型と、2人乗りの51型(若干大きく、全長6.5m、速力25kt)とがあり、厚さ7mmのベニヤ板製のボートで、トラックのエンジンを搭載したそうです。それもガソリンが欠乏して木炭車に代って車から外されたものを。
 総数約6200隻が建造されたものの、さしたる戦果が有ったとの記録は無い模様。
 私小説作家の島尾敏雄は、昭和1910月に、加計呂麻島の呑之浦の第18震洋隊の隊長になり、その経験から、「出発は遂に訪れず」を書いています。

 一方、徳之島の西海岸の東シナ海を臨む犬田布岬には、戦艦大和の慰霊塔が建てられています。昭和20年4月7日、坊ノ岬沖海戦と称する、その実、航空機による虐殺のような集中攻撃を受けて、挙げ句、戦艦大和の沈没は、随伴艦の乗組員も併せて、3700名余の戦死者を出しています。なお、アメリカ側の損害は、真に僅少(墜落は僅かに6機とか・・・)。
 ところで、坊ノ岬は、南さつま市、旧鹿児島県川辺郡坊津町の南西端の岬であって、徳之島の犬田布岬とは、数百キロメートルは優に離れています。

0 件のコメント:

コメントを投稿