2015年6月19日金曜日

弁護士らしくない話し(其の6)

 隠岐を訪ねてきました。

 旧の分国で言えば、出雲でも、石見でもなく、隠岐は一国で、そして、古代の駅逓制で駅使の鳴らす金銅製の「駅鈴」が唯一残されている国です。二個一組の両方が残っています。

 隠岐は島前(どうぜん)と島後(どうご)とに分けられますが、隠岐諸島は全部大小180余から成るそうですが、有人島は僅かに4ツ。面白いことに、隠岐島という島は無くて、島後の島に「隠岐の島町」があり、一方、島前の3ツの島、中ノ島、西ノ島、知夫里島に「海士(あま)町」「西ノ島町」「知夫(ちぶ)村」がそれぞれあります。人口は、約1万5千人、2千4百人、3千1百人、6百人ということで、四島で2万1千人余。

 最も訪れて見たかったのは、承久の乱で流された後鳥羽院の旧跡でしたが、これは中ノ島(海士町)にありました。
「われこそは 新島守(にひしまもり)よ
 隠岐の海の あらき波風 心して吹け(遠島百首)」の和歌。
 後鳥羽院は、新古今集の撰を藤原定家に命じたことでも有名で、「小倉百人一首」は、天智天皇で始まり、後鳥羽院の
「人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく
           世を思う故に もの思う身は」
と、その子の順徳院の
「ももしきや 古き軒端の しのぶにも
            なお余りある 昔なりけり」
で終わるとのこと。

 ところで、只今は、ジオパーク、隠岐世界ジオパークと大々的な宣伝がされています。地球の成り立ちの荒々しい痕跡が実に沢山残されており、それぞれが絶景と言うに十分です。

 昭和の大民俗学者の宮本常一は、山口県の周防大島の出身で、晩年は「離島振興」に力を注いでいましたが、我が国は4ツの大きな島ばかりで成っている訳ではなく、島嶼国家であることを今更乍らに強く気付かされます。

 有吉佐和子が「日本の島々、昔と今」という本を四半世紀前に出していますが(2009年には、岩波文庫となっています)、その頃は、飛行機便が大阪から月に2便、米子からは1便と記されています。只今は、大阪からも、米子からも、日に各1便。ジェットフォイルの高速船は、鳥取県の境港と島根県の七類港とに交互に寄港している様子。

 隠岐に流された人物で有名なのは、古くは、平安前期に小野 篁が、鎌倉前期に後鳥羽院が、そして、鎌倉末期に後醍醐天皇が、です。
 現地では、隠岐で亡くなった後鳥羽院がどうも人気第一のようです。
 ただ、この後鳥羽院の墓所は、明治6年には、その神霊を大阪府下島本町の水無瀬神宮へ還幸奉迎するとされ、また、明治22年には、京都の大原に陵を設けたことから、隠岐の陵墓は、火葬塚という不思議な位置付けに変わったとのこと。
(鎌倉幕府は、後鳥羽院の没後8年程で鶴岡八幡宮の北西に新宮神社を鎮魂の為に建立したとか)

 大阪から飛行機は1日1便ながら、1時間も要さず訪れることが出来、ジオパークとしても見応えがあります。
「息子が大阪へ行ったなりである」と渋い顔で言っていた知夫の案内人、「枚方市に娘が住んでいて、あと2年もすれば、自分もそちらへ行くことになる」と明るく語っていた老婦人、「嫁の里だから京都から『Iターン』で隠岐に来た」という青年・・・
 日本は決して小さな国、狭い国土などではない、と又々思いました。

 なお、余談として、物議を醸しているうちで、尖閣列島は沖縄県石垣市に属していますが、竹島は隠岐の島町に属しています。島後の北端の白島(しらしま)崎には、竹島まで141㎞との表示があり、また、国土地理院の20万分の1の「西郷」の地図の左上隅には、隠岐郡隠岐の島町「竹島」とあり、竹島が西島と東島から成っていることが表示されています。


 更に、余談ですが、島後では、島一周の100㎞マラソンが6月21日に開催され、島外800名の参加が見込まれる様子。西ノ島では、10月半ばに、最大標高差257mのVery Hardなハーフマラソンが催されるとの由。

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